失踪

 

悠々亭味坊

 

「先生、たいへん、わたしのお姉さん、いなくなった」

 教室に入ってくるなり浩美が言った。額には汗が光っている。

「えっ?なに?」

  いきなりそういわれても池内にはわけが分からなかった。浩美は三年日本にいたというからかなり流暢に日本語を喋るものの、時々意味のとれないことを言う。

「お姉さんがどうしたの?」

 池内は改めて訊いた。

「わたし、先週お姉さんと一緒に田舎に帰ったんだけど、翌日になったらお姉さん、どこにもいない。みんなで捜したんだけど見つからなかったんです」

「なんか用事があってどこかへ出かけたんじゃないか。浩美の田舎はどこ?」

「サコン。小さな村だから誰がどこにいるかなんてすぐ分かるんだけど、お姉さん、一週間たってもわからないの」

「フーン、神隠しか」

 池内の口から古風な言葉がもれた。異国に暮らしていると長い間お蔵に入っていた言葉が不意に出てきて自分でもびっくりする。

「神隠しってなに?」

「子供なんかの行方が急に分からなくなること。でも浩美のお姉さんは子供じゃないし・・・お姉さん、きれい?」

「もうシワシワよ、ズーと百姓やってたんだから。男に襲われたらお姉さんのほうが喜んじゃうかも」

 浩美は憂い顔をすこしほころばせた。

「田舎の夜道じゃ見分けがつかないだろ?」

「それよりお金を持ってたからそれが心配。逆らったら殺される」

「いくら持ってたの?」

「一万五千円くらい。殺し屋を雇ってお釣りがくる金額よ」  

「まさか。それで殺しをするなんていくらなんでもあわないだろ?」

「捕まらなければいいんでしょ?北のほうへ行けば警察も怖がる地域があるんです」

「お姉さんは殺し屋に狙われそうなのかい?」

「そんな悪い人じゃないです。ホントに誰かに襲われたんなら運が悪かったんですね」

「あんまり心配してもしょうがない。明日あたりひょっこり戻って来るかもしれないし。浩美さん、何で警察も怖がる地域なんて知ってるの?」

「実際に見たわけじゃないけど、そういう所があるのはみんな知ってます」

「戦争が終わってずいぶんたつのにまだそんな所があるのか。信じられないな」

「犯罪組織なんて戦争に関係ないです。東京にだってヤクザがいるじゃない」

「そりゃあそうだが、警察が怖がって近寄らないなんてことはない」

「この国では警察と泥棒が裏で取り引きするから怖いの。そういう馴れ合いを利用しようと思えばいくらでも利用できるから、都合がいい場合もあるんだけど」

「その辺の事情はよそものにはよく分からないが、とにかく警察には連絡しておいた方がいい」

「何もしてくれなかったわ。書類を書かされただけ。日本と違っていい加減なんだから」

「日本の警察だって捜索願いだけだと何もしてくれないらしいよ。泥棒と取り引きするってのは聞いたことないけど」

「日本のニューカン、厳しいよ、ぜんぜん取り引きなし」

「浩美さんは入管と警察、おんなじものと思ってるのか」

「オーバーステイの外国人にはニューカンのほうが怖いです。いくらお願いしてもダメ。その点、この国ではニューカンだって警察だってお金出せばなんとかなる」 

 浩美は三百万の借金を背負って日本へ行き、三年間働いてきたという。それを聞いただけで、浩美の日本行きがまっとうな方法ではなかったこと、入管の目をのがれて滞在を延ばし、不法に働いていたろうことは容易に推測できる。三百万の金は生半可な方法では返せない。おそらくたっぷり泥水を飲んでいるだろう。それは浩美の言葉の端々からもうかがえる。しかし池内はそれを咎めだてできる立場にはなかった。

 池内は家財を売り払いこの国へ来た。日本では元手にならないわずかな金でもこの国では十倍の値打ちになると聞いて、逆転ホームランを狙ってやってきた。有り金は日本語学校を開くまでにほとんど消えた。教師一人、教室一つの学校でも設立登記や、教室の家賃・保証金、備品の購入には日本並みに金が必要だった。生徒が次々に集れば手持ち資金が消えてもやっていけると踏んでいたが、その期待は開校一ヵ月であえなく消えた。生徒が思ったように集らない。一年たった今でも生徒は二十人前後、これでは家賃の半分にもならない。この間、残り少ない頭髪が目にみえて白くなった。五十五歳、独身の池内の老い先は暗い。この暗さに耐えかねて、最近、池内は昼間からウイスキーを飲むようになった。

 金になることなら何でもやってやる。そう密かに決めた池内には日本で法を犯してきたかもしれない浩美を非難できない。生き残るために何でもやるという気持ちが今なら手に取るように分かる。

 数日後、浩美が教室に来た。

「お姉さん、ヤパタビーチで見つかったって警察から電話があった。タオル一枚でビーチを歩いていたんだって。それでヤパタへ行ってきた。お姉さん、可哀想」

「何でヤパタビーチにいたの。サコンから遠いんだろ?」

「分からない。お姉さん、声が出ないの。目がこうやって動くだけ」

 浩美は自分の目をゆっくり左右に動かして見せた。池内は事件に巻き込まれた人間を身近に知ったのは初めてだった。新聞は数日おきに殺人現場のカラー写真をのせているが、池内は作り話のように思っていた。浩美の姉の事件でこの国の現実が初めて生々しく迫ってきた。

 浩美が不意に泣きだした。

「生きて帰ってきたんだ。しばらくしたら話せるようになるよ」池内は月並みな慰めかたしかできなかった。「気晴らしに日本料理を食べに行こう」

 浩美はすすりあげながら頷いた。教室からタクシーで三十分、インペリアルデパート内に安くて旨いという評判の日本料理屋があった。こんな時、飯が食えるものかどうか、そんな池内の気使いをよそに、浩美は事件を忘れたようによく食べた。

 食事後、浩美は池内をマンションへ誘った。父親のブンマーと自分の子供と三人で住んでいるという。池内は父親と顔を合わせるのは気が進まなかったが、食事と一緒に飲んだビールの勢いで浩美に従った。

 十畳ほどの一間にトイレ、シャワーのついた簡便なマンションだった。赤銅色の肌をした骨太の男があぐらのあいだに子供をいれてあやしていた。歳は池内より五つ六つ上らしい。顔には深い皺が刻まれているものの、目は精悍に光リ、髪は黒々としていた。見知らぬ客に慣れていると見えて、池内がそこに座っても照れもせず、構えもせず、泰然としていた。

 浩美は数冊のアルバムを取り出して池内に見せた。浩美と日本人との結婚式、披露宴、新婚旅行、赤ん坊のスナップで埋まっていた。

 不思議な写真だった。浩美の夫は四十五、六歳、日本人にしてはかなり大柄で、背丈は浩美より首二つくらい高いし、肩幅は浩美の倍はありそうだ。その夫の写真には笑顔がなかった。何十枚もあるスナップの中でただの一枚も笑っている写真がない。さらに際立っているのはその目つきだった。平凡な市民の目ではない。一見して執拗な刑事の目を思わせる。浩美に夫の職業を訊くと案の定警察関係だという。

 何より不思議なのは村中の人を招待して結婚式をあげていることだった。浩美の夫、桜井は日本に妻子がいる。離婚しているわけでもなく、別居しているわけでもない。これを浩美から聞いた時、池内は耳を疑った。二重結婚をこんなにおおっぴらにやっていいものか。しかも警察関係の人間が。

「役所に登録したんじゃないの。式をあげただけ。形だけでも結婚したことにしないと恥ずかしくて子供つれて歩けない。女の見栄よ」

「浩美はそれで満足してるのか」

「満足してないけど、もう諦めた。マンション買ってくれたし、時々仕送りあるし」

「奥さんは浩美のこと知ってるのか?」

「知らないみたい。わたしのほうから電話をかけたり、会いに行ったりしないから」

「浩美はお人好しだなあ。黙って旦那が来るのを待ってるだけなんて。昔のお妾さんみたいだ」

「言うこと聞かないと怖いよ、凄い乱暴する」

「なんでそんな男の子供を産んだんだ」

「その頃は好きだったんだもの」

「今でも好きなのか」

「今はもうあの子がいるだけで充分」

 浩美はブンマーの側で寝ている子供に顔を向けた。じきに誕生日をむかえるというその男の子は、ブンマーの褐色の肌に比べて際立って色が白い。おそらく父親に似たのだろう。

「でも認知だけはしてもらわないと困る。どんな手続をとるんだかわかんないけど・・・日本に行かないとだめかな・・・ネエ、先生、わたしと結婚してくれない?」

 浩美はだしぬけに突拍子もないことを言いだした。

「ビザや労働許可証、わたしと結婚すれば簡単に取れるでしょう?わたしのほうも都合いい。日本に行けるし、仕事できるし・・・」

「都合で結婚するのか。ロマンのかけらもないね。犬や猫が一緒になるんじゃないんだよ。だいたい浩美には旦那がいるじゃないか」

「今までずうと向こうの言いなりになってきたんだもの、義理は果たしたわ。わたしだってもう若くないし、子供はどんどん大きくなるし、わたし、焦る」

「旦那、怒ると怖いんだろ?」

「先生がいれば怖くない」

「俺、腕力ないよ」

「頭があるでしょ。先生やってんだから。それに男がそばにいるだけで安心できるもの。日本に行けばなおさらよ。お願い、まじめに考えて・・・」

 日本にいた頃の池内なら偽装結婚など考えもしなかったろう。そういう事実があったとしてもはるか遠い国の出来事だった。しかしその遠い国に来てのっぴきならない立場に追込まれてみると、一笑に付すことはできない。苦境から脱するためなら何でもやってやると密かに決心したばかりではないか。まして女からものを頼まれたことなど絶えて久しい。

「日本へ行ったら何をするんだ?」

「もちろんお金を稼ぐのよ。前に行った時は旅館でお運びさんしてたんだけど、今度はちゃんと結婚してるんだからもっといい仕事ができるでしょ?先生、一緒に行ってくれるんなら、遊んでていいわよ、わたし、がんがん働くから」

 髪結いの亭主か、悪くないな、と池内は思った。しかしこちらへ来てからの大損を取り戻し、老い先の見通しが立つだけの金がほしい。そうするには髪結いの亭主面をして遊んでいてはいけない。たとえば浩美がスナックで働くとする。きっと女が足りないだろう。浩美の友だちや知り合いを紹介してやれば店は助かるし、浩美の友人、知人は喜ぶにちがいない。結婚相談所を開き、日本の男をストックしておけば、これはこれで金になるかもしれない。池内は二つ返事で承知しそうになる口を引き締めた。

「子供はどうするんだ」

「田舎のお母さんに預けるわ。お父さんだって月の半分は田舎にいるんだからすこしは面倒みてくれるでしょ。お父さん、明日田舎へ帰るって。今晩じっくり考えて、明日また来て。わたしだってまんざら捨てたもんじゃないわよ」と浩美はあけすけに誘った。

 池内は結局浩美の誘いにのった。このまま日本に帰ったところで女のできる見込みなど百に一つもない。勤め口を見つけるのはもっと難しいかもしれない。長い間自分の会社を持って仕事をしていた池内には、中高年の就職難は他人事だったが今度はそうはいかないだろう。たとえ一時のことにせよ仕事とセックスが同時にかなうのなら、偽装結婚で負うリスクなどたかがしれている。池内はそう踏んで、翌日、浩美のマンションを訪れた。

 浩美は池内を横にさせると、いかにも手慣れたふうにマッサージをはじめた。たぶん日本で同様の仕事をしてきたのだろう、男を喜ばすツボを心得ていた。池内は多数の男の影に顔をしかめるより、彼らの体を扱うことで培ってきた浩美の技に一度ならず二度までも身を任せたあと、とろとろと快い眠りにおちた。およそ一時間あまり眠ったろうか、ふと目覚めると、浩美の熱い息が池内の耳をくすぐり、足が絡み、指が下腹部をもてあそんでいる。

「こんどはあなたの番よ、たっぷりいじめてちょうだい」

 池内は思わず上半身を起こしかけた。こんどは俺の番?もう終ったんじゃないのか?いじめてちょうだいとはどういう料簡だ?たて続けに疑問符がわいた。浩美は池内の疑問にいさい構わず尻を突き出し「いじめて」と叫んだ。これは桜井の仕込みか。これから桜井の攻撃がはじまるのか。だとすると桜井はやはりただ者ではない。池内はびびった。池内の木偶の棒は役に立たず、とりあえず指を代用してみる。二本、三本となんなく入り、さらに拳さえ入ろうかという頃にはさながら桶に入ったぬるま湯をかき回している気分。はじめ枕に突っ伏して声を殺していた浩美は、やがて遠慮なく獣じみた声をあげ、池内を弾き飛ばすほどに腰をくねらせた。

 部屋の隅に寝かせておいた龍一が目を覚ました。浩美の咆哮にあえばライオンさえ驚いて目を覚ましそうだ。龍一は起き上がり、池内を見つめた。瞬きもせず執拗に見つめる目。どこかで見たことがある。そうか、アルバムの中で見た桜井の目だ。親子なのだから似るのは当たり前か。池内が愛撫をやめると、浩美は眉根を寄せ、どうしたのと言いたげに薄目をあけた。池内があごをしゃくると、浩美は裸のまま龍一のそばへいき、添い寝してあやした。掌を返したような浩美の豹変振りに池内はむかっ腹をたてた。痛めつけてやる、と本気で思ったとたん、木偶の棒がムラムラといきり立った。池内は龍一に添い寝する浩美の背後から襲い、突き立てた。龍一はこの間、泣きもせず、眠りもせず、池内を見つめていた。

「このガキ、そんなに見たきゃあ、見せてやる」池内は桜井の横腹を匕首で何度もえぐるように浩美を猛然と突き立てた。しかし先に土俵を割ったのは池内のほうだった。池内の果てたのが分かったのか龍一は薄く笑った。薄く笑ったように見えた。そこに桜井がいる・・・池内はそう感じて鳥肌立った。

「こっちの坊やはいい子だこと。先にお寝んねよ。さあ、リューちゃんも寝ましょうね」

 浩美はそれまでの騒ぎが嘘のようにけろりとして言った。龍一は母親が落ち着いたので安心したのか目を閉じた。ごく普通の赤ん坊のあどけない寝顔だった。龍一の執拗な目、龍一の薄ら笑いは池内の思い過ごしだったに違いない。 浩美との結婚を成立させ、日本のビザを取るまでには様々な書類と繁雑な手続が必要だった。金と時間がかかった。ことに浩美のパスポートを作り直すのには金がかかった。それは浩美が以前犯した不法滞在と無関係ではないだろう。浩美は前回裏組織の世話で日本へ行った。今度もパスポートの件では裏の組織を使ったらしい。とにかくそのパスポートで三ヵ月の滞在ビザがおりたとき、浩美は手放しで喜んだ。日本へ行くにあたっての難問が片づいたのだ。池内との結婚の成立がビザの取得を容易にしたのは間違いない。浩美は池内を頼りにする素振りを見せるようになった。計算ずくだけの結婚ではなくなっていくことに池内は満足を覚えた。

 日本へ立つのは午前一時。割安のチケットを買うと深夜便になることが多い。父親のブンマーが空港まで車で送ってくれる手筈だった。浩美は上機嫌だった。すでに大金を手に入れたかのように舞い上がっていた。それにひきかえ池内は中高年の無職者の現実を知っているだけに気持ちが弾まない。尾羽うち枯らして帰国する負け組の移住者。池内はかつて読んだ週刊誌のそんな記事を思い出した。

「先生、ボヤッとしてないで、荷物運んで。車、来たわ」

 浩美がせかした。大型のトランクが三つ、マンションの玄関においてある。ほとんど浩美の衣装ばかりつまっていた。仕事に必要だし、日本で作ると高いから、と浩美は荷作りの最中に言った。何だ、もう水商売をやる気でいるのか。池内は裏切られたような気がした。三ヵ月も浩美の体に馴染むと形だけの結婚と割り切ってはいられないものが生まれてくる。それを日本の男に荒らされるかもしれないと思うとこれまた池内の気分を重くする。

 ブンマーは渋滞を避け、裏道、抜け道を通り、一時間ほど走った。掌を指すような走りかただった。池内はどこへ行くにもバスを利用していたから、この都会についてはかなり詳しかった。タクシーに乗ってもどのあたりを走っているのかだいたい見当がつく。しかしブンマーの走りは池内の土地勘をはるかにこえていた。並大抵の技術ではなった。ブンマーは池内の見知らぬ繁華街の小径の入り口で車を止めた。

 小径の両側は四階建の下駄履きアパートが連なっていた。ブンマーは一番奥の建物に池内と浩美を案内した。周辺は異様な臭いが漂っていた。

「クサいな、何の臭いだ」

「焼鳥屋、ラーメン屋、イカ焼き屋、いろいろある」

「ウンコの臭いも混じっている」

「ドリアンよ」

「浩美はここに来たことがあるのか」

「初めて」

「おヤジさん、何をするつもりなんだ」

「知らない。ついていけば分かるわ」

 一階はビリヤード場だった。天井に蛍光燈が三つ。広い部屋なので隅々まで光が届かない。壁は当初の白が一面ねずみ色に変わり、人が寄りかかるあたりは黒ずんでいた。板張りの床には点々とたばこの吸い殻が落ちている。壁際には空瓶、空缶が乱雑に並べてあり、いつ掃除したともしれない。それぞれの台を四、五人の男達が囲んでいる。女は一人もいない。

 ブンマーに従って部屋の奥まで行き、そこから古い汚れた木造の階段を上ると臭いはさらに強くなった。上り口近くの便所から漏れてくるアンモニアの臭い。いや、まだ他にある、と池内は思った。

 狭い二本の廊下の両側に小部屋が連なっていた。ドアが閉まっている部屋もあれば開いている部屋もあった。 池内は空いている部屋をのぞいてみた。昔の診療所にあったような皮張りのベッドが部屋の大半を占めていた。ベッドは所々破れ、はらわたを見せている。片側には形ばかりの洗面所があった。タイルのはがれた床に黄色くなった便器がすえられ、その脇に蛇口があり、ゴムホースがつながれている。落書きだらけの壁、床には使用済みのゴム・・・これだ、と池内は思った。夜毎に排泄する男の臭いが異様な臭いをさらに耐えがたくしていたのだ。

 廊下の突き当たりにピンク色のひな段が見える。廊下には照明がないだけピンク色が鮮やかだった。ひな段には女達が思い思いの格好で座っていた。テレビを見るもの、果物をほおばるもの、あくびをするもの、ジッと正面をみつめるもの、客を手招きするもの・・・およそその数三十人。

 ブンマーが浩美を通訳にして日本人の好みを訊いた。どんな女がいいのか。池内は答えに窮した。おでんを選ぶようにこれとこれなどと女を指さしていいものか。浩美の手前もある。何よりブンマーの意図が分からない。日本人の好みを訊いてどうするのか。これから日本人の客にあてがおうというのか。だいたいブンマーがこういう場所に出入りしていることさえ池内は知らなかった。

 池内がぐずぐずしている間、ブンマーは支配人らしい男に何やら囁き、男が頷くと、池内と浩美を三階に案内した。ブンマーはノックもせず一室のドアを開けた。女の子が三人荷物を片づけていた。今し方着いたばかりらしい。いづれも十四、五歳、中学生が修学旅行で宿に着いたときのようにはしゃいでいた。

 ブンマーはふたたび池内を促した。どの子がいいのか。池内は世辞抜きでみんないいと答えた。実際、北部から来たという三人は一様に肌が白く滑らかで、肌理こまかな日本の女に負けない。黒曜石のような目、締まった口元、足の長い腰高のスタイルは日本の男を喜ばすだろう。池内一人で来ていたらきっとこの中の誰かを買う、いや、できれば三人を独り占めしたいところだ。なにしろ初モノかもしれない、初モノでなくても陶磁器のようなそこが拝めるならば・・・池内の卑しい気持ちが動いた。

 浩美は世間話の調子で女の子に話かけていた。女の子の受け答えに身売りにまつわる陰惨な影はまったくない。あっけらかんとした明るさだった。

 ブンマーは満足げに頷いた。チラッと腕時計に目を走らせると二人を促して階段を下りた。

 車に戻ると浩美が口を開いた。

「涎垂らしそうな顔して・・・少しは遠慮してよ」

「おヤジさん、ホントのところ何モンなんだ?」 

「言ったでしょう、田舎で百姓してるって」

「ただの百姓じゃないのは子供だって分かる。女郎屋の支配人とツーカーの仲で百姓ってことはないだろ?」

「こっちに出てきた時は誰かの使い走りをしてるみたい。わたしにも分かんないのよ、何も話してくれないんだもの」

「じゃあ、訊いてみてくれ、なんで俺に女を見せたんだ?」

「もしかすると日本でお世話になるかもしれないからでしょ」

「俺にポン引きになれってことか?」

「ポン引きってなに?」

「客を紹介すること」

「客なんて自分で捜せるわ。身元保証人になってもらいたいのよ。そういう人がいないとアパートだってなかなか貸してくれないんだから」

 浩美は以前の経験からか日本の事情に詳しかった。ブンマーにそのことを話しているらしい。池内の知らないところで何かが着々と進んでいるようだ。金になることなら何でもやってやる、といったんは決心したものの、現実が動き出すと二の足を踏みたくなる。悪行に手を染めるほど池内に度胸はない。しかし周囲の動きは有無を言わさず自分を引きずり込むのではないか。池内はそんな予感に怯えた。

 車は一時間で空港に着いた。ブンマーは池内と浩美を降ろすとすぐに引き返した。差し障りがあって空港内を歩けないのかもしれない。チェックインまで時間があった。二階のレストランへ行く途中、出迎えの人々を見た。あちこちに日本人の名前を書いた厚紙が見える。ホテルや代理店の人間が出迎えに来たのだろう。こうして出迎えられた日本人が失踪しないという保証はない。事実、日本人会の回覧は、同じ手口で事故が起きている、と注意を呼びかけている。

 二階のレストランには旅行者と共に空港関係者の姿が多かった。定職を持った者の確固とした足取りが池内には羨ましい。同じテーブルを囲んで早くも思い出話に花を咲かせる旅行者たちが妬ましい。彼らには帰るところがある。池内にはさしあたりの落着き先さえない。明朝に到着する東京が今からばかに広く感じる。

 浩美ははしゃいでいた。食べ物一つ、飲み物一つ注文するのが楽しいらしい。確かに前回の日本行きに比べれば天国と地獄ほどに違うだろう。今回は日本人と結婚してビザをとった。入管に申請すれば長期滞在の許可が下りるだろう。三百万などという途方もない借金をこしらえないでもすんだ。仕事をみつけるのもたいして難しくあるまい。これでは鼻歌が出ないほうがおかしい。

 明日はS市のビジネスホテルに泊ろう。池内は二、三日前からぼんやり考えていたことを窓のそばで給油する大きな機体に目をやりながら腹の中で繰り返した。六年間住んだ町だ、多少の知り合いがないわけではない。もう帰ってきたのか、と言われそうだが、一ヵ月もすれば忘れてくれるだろう。役所、不動産屋、飲み屋、世話になりそうな場所はだいたい知っている。そう言えばここの職安の応対は丁寧だった。求人と求職では立場が違うけれど、同じ役所だ、掌を返すような態度は取らないだろう。人生すでに五十年を生きてしまった。あとは余録にすぎない。えい、どうにでもなれ。浩美を見ろ、元気イッパイだ。池内は浩美に励まされた。池内一人で帰国するののなら、ただ落ち込むだけだったに違いない。

 成田空港。外国人入国審査のカウンターの前には長い列ができていた。浩美は今回は本名を使っている。ビザは問題なくとれた。しかし不法滞在の前歴がある。イミグレのチェックに引っ掛かったらどうしよう。浩美はさすがに緊張の面持ちだった。池内の入国審査は簡単に終った。池内が待つ間、浩美は不安からかしきりに池内に視線を絡ませてきた。

 無事通過。浩美は狭い通路を出てくると小躍りして喜んだ。池内は慌ててカウンターを振り返った。怪しまれて調べ直されたらかなわない。池内は浩美を引きずるようにしてその場を離れた。

 浩美が池内を心から頼りにしてくれたのはこの時だけだったかもしれない。アパート探しや浩美の仕事探しの間、池内にはそれなりの役割があった。浩美は相応にありがたがったが、入国時の切実さは薄れていた。まして浩美の仕事が決まり日常が始まると、池内の存在は軽くなった。疎んじられるのを恐れて、池内は足しげく職安に通った。二ヵ月、三ヵ月、帰国前に心配していたとおり仕事は見つからなかった。

 池内は一人で生活していた時、炊事、洗濯は苦にならなかった。しかし女と一緒に暮らし、女が働きに出て、自分が女の分まで炊事、洗濯を引き受けるとなると情けなさが先に立つ。酒を飲まずにいられなかった。

 浩美は池内が昼間から酒を飲むことを嫌った。仕事が見つかるまで池内には家事をしていてもらえればよかった。浩美の国の男達は少なからずそうやって生活している。男が外に仕事を持たないことに文句をつけるつもりはなかった。だが昼間から酒を飲み、クダを巻かれてはたまらない。スナックで夜っぴてそんな男達を相手にしているのだ。部屋に帰ってまで酔っぱらいのご機嫌をとりたくなかった。浩美はしだいに池内を邪険に扱うようになった。

「明日は遅くまで寝てられないの。用事がいろいろあって。うるさいこと言わないで早く寝てよ」

「用事ってなんだ」

「銀行、郵便局、それからデパート」

「男と会うのか」池内は疑いを質さずにはいられない。

「誰に会おうと勝手でしょ。つまらないやきもち焼かないでよ」

「そうだな、もともとその気で来たんだろうから」

「分かってるんならごちゃごちゃ言わないの。わたしだって好きでやってるんじゃないんだから」

「それにしてはばかに嬉しそうじゃないか」

「たまには気晴らしをしたっていいでしょ?毎日スナックとアパートの往復じゃあクサクサするわ」

「桜井に会うのか」池内は以前からの疑問を口にした。

 浩美は顔色を変えた。「あの人とは手を切ったと言ったでしょ」

 向きになって抗弁するところが浩美らしい。これでは誰も騙せない。やはり桜井が相手か。今までも会っていたのだろう。子供まである仲だ、簡単に切れるはずがない。いや、浩美のほうが離れられないのだ。桜井は浩美と一緒になる気はない。浩美が日本にいた頃、桜井は浩美を自分の家庭に近づけなかった。

遊び相手と考えていた証拠だ。浩美が妊娠してひと波乱ありそうな時、浩美は日本から放逐された。これほど桜井に都合の良かった処置もあるまい。あるいは桜井が地位を悪用して入管に手を回したのかもしれない。

 浩美が外国にいるかぎり恰好の愛人だった。安上がりだし、うるさく付きまとわれないし、出張の際は現地妻となる。嫌気がさせばそのまま見捨てたって、たいした面倒にはならない。桜井は一件落着のつもりでいたに違いない。まさかこんなに早く浩美が日本へ来るとは思わなかったろう。日本に来て、仕送りだの子供の認知だのと、うるさいことを言われれば邪魔になる。まして正式に結婚した男が後ろにいるとあっては早く何とかしたいと思っているはずだ。

   浩美は客と寝ることを隠さないのに、なぜ桜井と会うことを隠すのか。桜井と以前の関係に戻りたいからか。なにより桜井にきつく口止めされているからだろう。池内がゴロツキなら桜井と浩美との関係はゆすりのネタになる。子供を作っておきながら、はした金で厄介払いか、そうはいかねえ。よくも俺の女房に手をつけてくれたな。たっぷり礼をさせてもらうぜ、とかなんとか・・・まして桜井が警察幹部と知れたらこの時とばかりに牙をむくだろう。桜井ならそんなことは百も承知のうえ、かならず手をうってくる。

 桜井龍夫・・・アルバムの中の不敵な顔が浮かぶ。蛇を思わせる執拗な目。太くふてぶてしい鼻。かけらの笑みも見せない口元。もし実際に敵にまわすとしたら・・・思うだけで足がすくむ。しかし桜井とてつけいる隙はあるはずだ。たとえば結婚式のアルバム。写真を撮るのは避けられなかったとしても、不用意に日本人に見せてはいけない、くらいの釘は刺しておくべきだったろう。後日ネガもろとも処分することもできたはずだ。桜井にだって油断はある。

 どうしよう。先手を打って浩美の後をつけるか。どこで会うのだろう、喫茶店か、レストランか。そんなはずはない。ホテルの一室で、翻弄されて悲鳴を上げる浩美の姿態が目に浮かぶ。今、浩美は池内を避けるように背を向けて寝ている。池内にはそれがいっそう腹立たしい。池内は起き上がり、薬品臭い安ウイスキーを呷った。

 泥酔した池内は浩美がいつ外出したかもわからなかった。翌日の明け方、スナックから戻ったきた浩美は あっさり言ってのけた。

「国へ帰るわ。手伝いを捜してくる。お店に頼まれたの」

「ブンマーに連絡すればやってくれるだろ?浩美がわざわざ行くことないじゃないか」

「わたしじゃなければ分からないことたくさんあるでしょ」

「いつ行くんだ」

「あさって。二週間くらいで戻ってくるわ。アパート捜しておいて。近くがいいわね」

「あさって?飛行機のチケット、どうするんだ。そんなに急にとれないだろ?」

「大丈夫。予約してあるから」

 なんだ、すっかり決まっていたのか。勝手にしろ。池内は不貞腐れるほかなかった。偽装結婚であるのはわかっていてもあまりにないがしろにされては面白いはずがない。いったい誰のおかげで日本にいられると思っているんだ。いつもの文句が池内の腹に黒く淀んだ。

「ごめんね、センセイ。そんな顔しないで・・・」

 浩美は表情を読むのが早い。池内を限界以上に怒らせないコツを心得ている。

「きょうはたっぷりサービスしちゃう。わたしだってセンセイといないと寂しいんだから・・・」浩美はいきなり池内を押し倒し馬乗りになった。池内の首に腕を巻き、激しく唇を吸った。

 出発当日までの二日間、二人は終日情事に溺れた。正確には浩美が池内を捉えて離さなかったのだ。浩美は心中するように池内を情交の淵に引きずり込んだ。

 浩美を見送りに成田まで行く間、池内は駅の階段の昇降に腑抜けた年寄り同然しばしば手すりにすがった。

「荷物、よこしなさい。ああ、見ちゃいられないわね」

「お前があんなことするからだろ」

 池内は渋面を作って答えたが、内心は逆だった。思い出し笑いがこぼれそうになる。いやあ、食い飽きてねえ、二週間はおろか二年先までいりませんなあ。こんなふうに同年代の男にさり気なく自慢してみたい気がする。

「浮気しないようにしっかり抜いてあげたの。帰ってくるまでおとなしくしてるのよ」

「よせよ、聞こえるぜ」

「誰も聞いちゃいないわ。年寄り夫婦の話なんて」

「年寄りにしちゃ、お互いずいぶん頑張ったもんだ」

「よしなさいよ、ニヤニヤ笑うの」

 相手が浩美ならこうやってじゃれあうだけでも悪くない。きぬぎぬの別れの場面。まして二日に及ぶ浩美の痴態を知った後では、浩美なしで何日も我慢できるはずはない。池内の体は浩美の手練手管に骨の髄まで溺れた。さながら蟻地獄にはまった蟻、抜け出すのは難しい。 

 同じ日、池内はいつものウィスキーを飲みながら深夜まで浩美からの電話を待った。スケジュール通りなら二時間前に浩美の乗った飛行機は空港に到着しているはずだった。池内は待ち切れず何度か浩美の携帯電話にダイヤルした。浩美のマンションにもかけた。携帯電話はその都度つながらない旨をコンピューターの声で繰り返した。マンションの電話からは呼出音が聞こえてくるだけだった。

 池内は飲みつづけた。酔って眠くなるとに服を着たままベッドにもぐりこんだ。二、三時間は寝たろうか、テレビをつけるとザーザーという音と共に砂嵐が飛んでいた。チャンネルを回すと、カラーの静止画面が現れた。どうやら深夜放送も終ったらしい。池内は寂しさに耐えかねて電話をかけた。つながらない。池内は腕時計を見た。午前二時半。いつもなら浩美を迎えに行く時間だ。池内は起き上がり、浩美の働いていたスナックに向かった。

 入り口を入ると右手がカウンター、左手がボックス、真ん中にかなり大きなステージがある。カラオケとダンスのステージだ。そこは明かりが消えていた。カウンターの上だけが明るい。マスターが帰り支度をしていた。

「今晩は。もう終い?」

「うん、いま片してるとこ。ビールくらいならいいよ」

「悪いね、じゃあ一本いただこうか・・・浩美から連絡なかった?」

「昨日発ったばかりだろ?若い女房持つと気苦労が多いね」

「いや、着いたらすぐ電話するって言ってたもんだから」

「お宅にかかってこないのにどうしてウチにかかってくるのよ」

「マスター、浩美に女の世話、頼んだんだろ?」

「えっ?そりゃあ若い子に来てもらえれば助かるけど・・・」

「マスターが頼んだんじゃないの?そんな話だったけどな・・・だからお宅に連絡があるかと思って」

「そのうちかかってきますよ。うるさく言ってくるよりいいじゃないの、ハネ伸ばせて」

「うん、まあ・・・」

 池内は不得要領にスナックを出た。浩美はなぜすぐバレるような嘘をついたのか。桜井の差し金か。ひょっとするとトラブルを用心してマスターがとぼけたのかもしれない。あれで食えない奴だから・・・池内はマスターののっぺりした顔を思い浮かべた。フィリピンの女が客を取ると六割をハネルという。容易に歯の立つ相手ではない。

 池内はアパートに戻って酔いつぶれるまでウィスキーを呷った。

 その後二週間が経過したが浩美とは連絡がつかなかった。一度だけ浩美のマンションの電話につながった。ブンマーがでた。浩美がマンションに帰ってないことだけが辛うじて聞き取れた。

 池内は居酒屋のカウンターで徳利を傾けている。酔うには猪口よりコップ酒の方が早いが、それでは時間をつぶせない。なにしろ時間だけは腐るほどある。猪口を口に運びながら週刊誌のグラビアを眺めた。これで三度目だ。細かい活字を追う気になれない。最近は新聞を開いてもぼんやり眺めていることが多い。世の中の動きに興味を失ってしまった。

 背後で高笑いが起きた。ああ、自分のことを笑っている。池内はそう思った。といって喧嘩を売るほどの意気地はとっくになくしていた。池内は勘定をすませ、居酒屋を出た。さて、どこへ行こうか。浩美の働いていたスナックを覗いてみようか。浩美から連絡が入っているかもしれない。しかし入ってなかったらマスターの冷たい視線を浴びるだけだ。不愉快な思いをして高い酒を飲むことはない。やめておこう。

 池内は自動販売機でウィスキーを買った。日本は便利だ。いたるところに自動販売機がある。アルコールが溢れている。まともな人間がアル中になるとしたら自動販売機に過半の責任がある。池内の思考は現実と向き合うことを避け、あらぬ方角に向かいがちだった。池内は抱えていたウィスキーのふたをとった。

 部屋の電気がついていた。誰がつけたのだろう。浩美が帰ってきたのか。池内は小躍りしてドアのノブを回した。開かない。鍵がかかっている。池内は鍵を取り出し鍵穴に差し込んだ。ドアを開け、部屋の中を注意深く見回した。浩美の姿はない。しかしテーブルの位置が微妙にずれている・・・気がする。誰かが忍び込んだのだ。

 そういえば昨夜のどが渇いて目が覚め、水をのみに台所へ行ったとき、水道の水がちょろちょろ流れていた。目を上げると窓ガラスの向こうに蟇蛙がべったりはりついていた。その時は見過ごしたが、改めて考えるとおかしい。そうだ、改めて考えると不審な出来事が次々と起きている。

 冷蔵庫の底に緑色のドロドロした液体が溜まっていた。浩美が入れたとは思えない。あれは何だったのか。

 夜半、突然、ザーという高い音が聞こえ、目覚めた。テレビがついていた。例の砂嵐の音だった。部屋の電気もついていた。寝込む時はたしかテレビも電気も消えていたのに・・・

 隣の婆さんがウチのドアをドンドン叩いていた。濁った頭を抱え、かったるい体を引きずってドアを開けてみると、髪振り乱した婆さんが顔をひきつらせて立っていた。ベランダで猫が死んでいるという。植木鉢の陰にうずくまっていた死骸を生ゴミと一緒にして集積所に捨てた。あれだってウチのベランダと隣のベランダを間違えたのではなかったか。

 以来、死骸の冷たい手触りがときどきよみがえる。同時に訴えるような細い鳴き声が聞こえてくる。隣の婆さんにそう打ち明けたら、いきなり外に飛び出して行った。あんなに慌ててどうしたのだろう。事故にあっていなければいいが。

 事故といえば・・・危うく命を落とすところだった。弁護士事務所からの帰りがけ、駅で電車を待っていると背後からどんと強い力で押された。思わずそばにいる人にすがってホームから落ちるのをまぬがれた。あれは只事ではない。明らかに誰かが故意にやったことだ。ふたたび弁護士事務所に行って訴えたが始めの時と同様、相手にされなかった。

「だいぶ酔ってますな。シラフのときにいらっしゃい」それだけだった。あの弁護士、いつの間にか態度が太くなった。昔、借地のいざこざを担当してもらった時はもっと腰が低かった。十年も弁護士をやっているとしぜんにエラくなっちまう。くそったれ、こっちは先細りもいいとこだ。

 池内はさらに二週間待って音沙汰がなかったら、浩美の国へ行くことにした。この間にできる限りの準備を整えた。浩美のマンションに頻繁に電話をかけてやっとブンマーをつかまえたのは出発日の二日前だった。依然として浩美はマンションに戻っていないらしい。ブンマーは空港まで出迎えるといった。池内はなけなしの金をはたいてチケットを買った。最後の旅になる予感がする。緊張のあまり搭乗前から下痢が始まった。子供の頃から悩まされてきた癖だった。

 荷物が吐き出されるターンテーブルの近くに出迎えの人々が待っていた。ブンマーの姿はなかった。池内の名前をかいた厚紙を持っている女が近づいてきた。

「失礼ですが池内さんですか?」 池内が頷くと、安心したように微笑し「ブンマーさんの代わりに来ました。お疲れになったでしょう。レストランで少し休んで行きませんか」と誘った。流暢な日本語だった。日本人に慣れている。旅行社のガイドだろうか。女は先にたち、二階の落ち着いたレストランへ入り、ビールを注文した。あらかじめ手順が決まっているような物慣れた態度だった。

 池内は頻繁にトイレへ立った。下痢がおさまらない。女は心配そうな表情を作って先に病院へ行こうと言った。明日から浩美を捜して方々走りまわらなければならない。その前に治しておきたい。池内は女に従った。

 女は地下一階の駐車場にベンツを待たせていた。ドライバーが一人。女は助手席に乗った。池内が後部座席に乗り込むとすぐに二人の男が両脇にすべりこんだ。

 池内ははっとした。反射的に体がドアに向かった。両脇の男が池内の腕を鷲掴みにした。

「騒がないで」女が低く言った。脇腹に固い金属状のモノが突きつけられた。 まさか、冗談だろ、テレビドラマじゃあるまいし・・・池内は男に両腕を取られながらも現実のこととは思えなかった。

 下痢、二日酔い、暑熱、恐怖。すべてが混じり合い、汗となって全身から吹き出した。

 ベンツは静かに発進し、市内と逆方向に向かった。池内は浩美の姉を思い出した。こうやって誘拐されたのだ。だが殺されはしなかった。池内はそこに一縷の望みをかけた。あれはブンマーへの警告だったのだろうか。とすると、今頃ブンマーはこいつらの組織に・・・池内は必死で頭を働かせようとした。しかししだいに意識が遠のいていく。そうか、女の仕業だ。トイレに立った隙に睡眠薬を入れる。たやすい仕事だ・・・ここまで考えて池内は意識を失った。

 

 池内が日本を発った二日後の桜井宅。久しぶりに休みをとった。庭の生け垣が光っている。かすかに歓声が聞こえる。学校の運動会らしい。桜井はロッキングチェアに身を委ね、煙草をくゆらせた。紫煙が庭を流れていく。

 桜井は注意深く新聞を読んだ。目にとまる記事はない。

 十一時前。郵便配達のバイクの音がした。しばらくして妻が書斎に入ってきた。

「あなた、この写真なに?外国へ行ってこんなことしてたの?」妻の声が震えた。これは予測していたことだ。無視すればいい。

「ああ、これか。もう終ったよ」

「そうかしら。これからはじまるんじゃないの」

 妻が横にぺタっと座った。

 その時電話が鳴った。妻が手を伸ばして受話器を取った。

「はい、ただいまかわります」

 妻は黙って受話器を夫にわたした。

 甲高い声が聞こえてきた。

「新聞社のものですが、桜井さんの愛人が失踪されたという投書がありました。事実かどうかお伺いしたいのですが・・・」

「知りませんな」

 桜井は電話を切った。間をおかず電話が鳴った・・・

 

 池内が意識を取り戻したのは固いベッドの上だった。左腕に針が刺さり紙テープでとめてあった。針の片側からチューブが伸びて逆さに吊るした薬瓶につながっている。白い服の見知らぬ女が池内の顔をのぞきこんだ。どうやら助かったらしい。

 思いついた所には桜井と一緒に写った浩美の写真を送っておいた。現地の警察、日本大使館、日本人会、ミニコミ紙。日本を発つ前には日本の警察、新聞社、出版社、それから桜井の妻にも事情を書いて写真を同封しておいた。どこか一ヶ所くらい、誰か一人くらいは浩美と池内の失踪を真面目に考えてくれるだろうと思って。

 桜井はこの国の警察幹部を通じて裏組織に確実につながっている。でなければあんなに手回し良くグループが動くはずがない。浩美の失踪も桜井がかんでいるのは明らかだ。というより桜井の指示で組織が動いたににちがいない。

 誘拐、殺人を仕事にするような組織がなぜ自分を生かしておくのか。いや、自分の手紙と写真が届いてまっとうな地元の警察が空港で網を張っていてくれたのではないか。きっと組織が手を下すのを待って保護してくれたのだ。現行犯逮捕で四人は捕まったにちがいない。ここは警察関係の病院だろう。池内は安心からかふたたび眠くなった。白い服の女が男をつれてきた。目つきが険しい。池内はぎょっとした。本当にここは病院だろうか。ここが本当の病院だとしても、組織がやる気になれば麻薬を混ぜることくらい簡単にやってのけるだろう。

 池内は二人が去るのを待って、針をむしりとった。池内は眠気と戦い、部屋から廊下に出た。あの男は組織の人間かもしれない。とにかく素性の知れない所にいてはあぶない。大使館へ逃げ込もう。走ろうとしたが足もとがおぼつかない。視界が定まらない。薬がまだ効いている。

  池内は建物の外に出た。一車線の道路が闇を貫いている。池内は標識に記された地名を読んだ。ノンブリ?まったく見当のつかない地名だった。

 池内は腕時計を見た。午前一時過ぎ。空港に着いたのが午後九時頃だった。それから四時間。この激変ぶりはどうしたことか。池内は呆然として足もとを見た。裸足だった。着衣を見た。緑色のパジャマのようなものを着ている。

 池内は胸や腰に手をやって愕然とした。金がない。パスポートがない。身分を証明するモノがない。どこにいるのかさえ分からない。

 池内は今どこにも所属していなかった。地団駄踏みたいような焦燥に駆られた。睾丸が怯えて縮み上がった。

 抜け出してきた部屋にあるはずだ。戻って捜そう。池内は建物の正面から入った。忍び込む気持ちを失っていた。白い服の女と目つきの険しい男が廊下を走ってきた。二人は池内を抱きかかえるようにして部屋につれ戻した。池内は逆らわなかった。所属を決めてくれるのなら相手が誰であろうと構わない。

 池内は安堵してベッドに横になった。白い服の女が池内の腕をとり、注射器の針を刺した。男がそばで池内の様子を見守っていた。

 やがて男の顔が遠くにかすんだ。深い淵にぐんぐん吸い込まれるように池内は眠りに落ちた。

                                                        (完)