メコンの落日 第三部

悠々亭味坊 

 一九九六年十月四日正午前。バンコクのビジネス街、シーロム通りはあいかわらず喧騒のさなかにあった。バス、タクシー、トゥクトゥク、モーターサイ・・・ランドーローバーからミニ、最新車から廃車寸前のポンコツまで数珠つながりに繋がり、思い思いに排ガスを吹き、クラクションを鳴らす。そのうえ大通りの中央ではモノレールの建設が進行中で、たえまなくコンプレッサが轟音を立てていた。歩道はもまもなく屋台や食堂で昼食を取ろうとするビジネスマンやOLでごったがえすだろう。<BR>

 「マルチ・カラー・ジュエリー」の真向かいはビルの建築現場だった。十階ほどの高さまで立ち上がっている。宝石店のショウウインドウを遠慮深く避けてラーメン屋が屋台を出していた。デビッドはさり気なく歩行者を楯にして自分の店を出た。プノンペンから戻ってきてからは常に増して注意を払っていた。店のドアを開けたとたんに鉛弾を食らうのはぞっとしない。その歩行者は急いでいた。おそらく日本のビジネスマンだろう。地元の人間に炎暑の下を早足で歩く習慣はない。デビッドの一歩先を行く彼は、小さく舌打ちをし、突然踵を返した。その瞬間、横にはじかれ、デビッドに肩をぶつけ膝を崩した。デビッドは彼が歩道に倒れる前に腰に手を回し、そのまま宝石店のドアまで走った。<BR>

一人旅お助けクラブ

 宝石店の前のラーメン屋が客を放って向かいの建築現場に急いだ。車と人ごみをぬって現場に急行する敏捷な動きは、ラーメン屋を本業にする若者とは思えない。上背のある細身の体。褐色に光る肌。獲物を追う時の射すくめるような視線。ソッ・ティール。<BR>

 胡光伸の襲撃を予期して、ソッ・ティールはラーメン屋に化けて網を張っていた。デビッド一行がバンコクに戻って来て四日目。素早い反撃だった。 <BR>

  ソッ・ティールは歩行者が撃たれた瞬間、向かいの建築現場を見た。三階で黒い陰が動いた。建築現場の後方へ逃げるとすればプン通りを抜け、サトーンヌア通りに向かうはずだ。この渋滞の中を走るにはオートバイしかない。ソッ・ティールはモーターサイの後部に飛び乗り、頭に描いた逃走経路を運転手に指示した。目印はライフルを納めたケースだ。逃走途中で捨てはしまい。オートバイとライフルのケース。ソッ・ティールはほかの可能性をすべてカットし、二点に集中して前方を見つめた。いた!フルフェイスのヘルメットをかぶった二人乗りのオートバイ。後部にまたがった男がそれらしいケースを抱えている。左折した。<BR>

「スピードを上げてくれ」ソッ・ティールがドライバーに言った。瞬く間に前方のオートバイと同じ角を左折しサトンヌア通りに出た。しかし二人組のオートバイは消えていた。二十メートルと離れていなかった。見失うはずのない距離だった。近くに逃げ込める小径はない。バスの向こうにいるのかもしれない。ソッ・ティールはさらにスピードを上げさせた。バスの後ろにつき、左右を見たがやはりいない。ソッ・ティールはロシア大使館の前でモーターサイを下りた。大使館?ソッ・ティールはハッとした。たしか左折した角にはミャンマー大使館があったはずだ。ソッ・ティールはサトンヌアとプンがT字に交差する角まで戻った。コンクリートの塀が周囲を囲み、出入口は鉄製の扉が閉ざされて中の様子が見えない。ソッ・ティールは扉の脇に取り付けられたブザーを押した。目の高さの細い金属の蓋が内側に開いた。二つの目が注意深くこちらを伺っている。<BR>

「今オートバイで入った者の友達なんですが、彼に会わせてもらえませんか」<BR>

「オートバイ?知らんな。誰かに会いたかったらアポイントメントをとってくれ」金属の蓋がしまった。取りつく島がない。こちらの面を晒しただけに終った。<BR>

 胡光伸のことだ、大使館を使うくらい造作もないだろう。とりわけミャンマーとはヘロインで深く繋がっている。ソムサク・サクルー、ミッ・ソピア、リチャード・ワン、レイモンド・インといくつもの名前を使って、ミャンマー、ラオス、カンボジア、タイの地下組織を支配する男、胡光伸。一昨日、カンチャナブリの警察は麻薬密売人を手錠をかけたまま射殺した。六人もの男たちを公衆の面前で有無を言わさず撃ち殺した。これは明らかに見せしめの処刑だった。テレビ、新聞はいっせいにセンセーショナルに報道した。タイのマスコミが殺人事件を控え目に報じた例はない。<BR>

 胡光伸は白昼ビジネス街のド真ん中に狙撃手を差し向けた。タイの麻薬取締局の見せしめに対して、胡光伸は嘲笑って応じた。命をかける兵隊などいつでもいる、いくらでもいると。<BR>

 デビッドは身代わりになって負傷した日本人ビジネスマンに応急措置を施し、ケビンにチュラロンコン病院まで付き添わせた。右大腿部貫通。狙撃手の腕は幸いなことにBクラスだった。さらにデビッドにとって幸いだったのは、日本人ビジネスマンが突然踵を返して楯になってくれたことだった。だが、今後も僥倖を当てにするのは危険すぎる。デビッドはシンサンジムの会長、山室に電話をかけ、充分警戒するように伝えた。デビッドの妻ナンティヤ、一人娘のエミリーはすでにソイ・ランスワンの一軒家からジムの二階に引っ越していた。大勢の練習生に囲まれて生活しているにしても、油断があればつけ込まれる。 デビッドは麻薬特別捜査課の主任プラパットに刺客に襲われ、身代わりに日本人が負傷したことを告げた。<BR>

「誰だ、撃ったのは?」<BR>

「ソッ・ティールが追いかけているところだ。君のところに情報はないのか。特別捜査課の看板が泣くぜ」<BR>

「ポイペトのマーケットで胡光伸を目撃したという報告はある。しかしマーケットを徘徊しているだけではしょっぴけないし、そもそも奴をしょっぴこうなんて思うポリスがいない。国境警備警察局の中には奴の息のかかった者がゴマンといるんだ。奴を豚箱にいれる前に自分が消されてしまう。バンコクでも事情はほとんど同じだ。精確な情報が入っても私の班に届く前に握り潰されてしまう。奴の尻尾を捕まえるのは難しい」<BR>

「君の愚痴を聞きたくて電話したんじゃないぜ。せめて麻薬取締局の中だけでもきれいにしたらどうなんだ」<BR>

「口で言うほどたやすくない。麻薬特別捜査課は三課あってウチを除いて胡光伸につながっている可能性がある。いつ後ろから撃たれるかわからんのだ」<BR>

「腐ったリンゴは隣のリンゴを腐らせる。せいぜい君の部下に撃たれんように気をつけてくれ」<BR>

「親切なご忠告、ありがたく承っておくよ。そのうち木偶の棒じゃないってところを見せてやる。もう少し時間をくれ」<BR>

「鋭意捜索中か。気長に待つほかなさそうだな。面白そうな話があったら知らせてくれ。ところでこの電話は盗聴されてないんだろうな」<BR>

「君の方に細工されてない限り大丈夫だ」<BR>

 デビッドはいったん電話を切り、ジムにかけ直した。ラーメンの屋台を放り出したまま、ソッ・ティールは帰ってこない。誰かに代わりをやらせよう。山室が受話器をとった。                             
「ラーメン屋をやれる者はいないか」<BR>

「その気になれば誰でもやれますよ。しかしドンピシャのはまり役ならビリーでしょうね」                  <BR>

「だろうな。すぐよこしてくれ。はまり役なんて言うなよ、それでなくても頭に血がのぼりやすい体質なんだから」<BR>

旅のよろずや

 ソッ・ティールはミャンマー大使館の正面が見えるモーターサイの溜り場で辛抱強く待った。ドライバーの一人に一日の稼ぎを上回るチップをはずみ、二人組がいつ出てきても追跡できる用意をした。交互に飯を食い、トイレへ行き、正面の門を見張った。六時に公用車が退出した以外、動きがない。公用車には運転手が一人、後部座席に二人、いずれも年配の男だった。二人組は本当に大使館に隠れたのか。ソッ・ティールは自分の勘を疑いはじめた。<BR>

 午後八時四十分。鉄製の扉が開いた。オートバイの二人組が出てきた。後部にまたがった男はケースを抱えていない。ソッ・ティールはドライバーを促し、五メートルの間隔を取った。二人組はプン通りを戻り、シーロムへ出た。そのままユーターンのできる地点まで直進し、反対車線に入り、「マルチ・カラー・ジュエリー」に近づく。歩道ではビリーが屋台を片付けていた。デビッドの車が地下の駐車場からビルの脇を通ってシーロムへ出てきた。ケビンが運転している。デビッドは後部座席。車一台分ほどの間をあけて二人組が尾けた。二人ともフルフェイスのヘルメットをかぶっているので間近に迫っても人相は分からないだろう。ソッ・ティールのドライバーがその後を追った。この時間、シーロムは依然として混んでいた。車は速く走れない。ビリーのバイクが追いつき、デビッドの車に並んだ。中央側につけている。車はラマ四世通りを突っ切り、ウィッタユ通りに入った。大使館の多い広い閑静な通りだ。夜になれば渋滞はない。左手にルンピニ公園の鉄柵が続く。やるとすればここだ。ソッ・ティールの勘が告げた。<BR>

 車一台を挟んで尾けていた二人組がスピードを上げ、デビッドの車の後に割り込んだ。後部にまたがった男がジャンパー下のホルスターから銃身の長い拳銃を引き抜いた。サイレンサーが取り付けてある。デビッドの後頭部に発射した。至近距離。おそらく二メートルもないだろう。後部のガラスがクモの巣状になった。しかし穴は開かない。この車には防弾ガラスがはまっている。デビッドの後姿が消えた。狙撃手のオートバイは歩道側をすり抜けて逃走を試みた。ケビンは車を歩道側に寄せた。狙撃手はケビンを狙って乱射した。側面のガラスがクモの巣状になったが、ケビンに異常はない。ケビンはさらに左にハンドルを切り、車の横腹をオートバイにぶつけた。二人は転倒した。しかしすぐに立ちあがり、鉄柵をよじ登り、公園内に逃げ込んだ。ケビンは車を歩道に寄せて停めた。デビッドの安否を気遣うことなく二人を追って鉄柵によじ登った。鉄柵がケビンの巨体でギシギシ揺れる。今にも倒れそうだ。伏せていたデビッドが車を降りた。<BR>

「ビリー、先回りしてラマ側を見張れ。ソッ・ティールはサラシン側とラジャダムリ側を頼む。私はケビンと一緒に追う。分かってるだろうが、殺してはいかん。生け捕りにするんだ」<BR>

 言い捨ててデビッドが走った。ビリーは歩道に乗りあげ、ウィッタユを逆戻りした。バンコクでは渋滞に業を煮やし、警官のオートバイさえ歩道を走る。ビリーは歩行者を避けながら歩道を突っ走った。ソッ・ティールはウィッタユを直進した。五百メートルほど先で左折するとサラシン通りに至る。そこがルンピニ公園の北の外れだった。<BR>

 ラマ四世通りに入っておよそ二百メートル。バス停近くに公園の南門がある。ビリーはここで迷った。さらに先に行くと、ラジャダムリ通りにぶつかり、角に公園の正門がある。正門前にはキング・モンクットクラオの銅像が立ち、浩々とした照明を浴びて、周囲は真昼のように明るい。シーロム、タニヤ、パッポンへ行くのならこの正門を越えるのが最短距離だ。しかし真昼のように明るい正門をあえてよじ登るか。そんな間抜けな犯罪者はあるまい。選ぶとすれば明かりの少ない南門周辺だ。ビリーは正門の可能性を切り捨て、南門にとりついた。公園は犯罪予防のため毎晩八時に門を閉める。規則を無視する者にこの門はほとんど役に立たない。ビリーはやすやすと門をのり越え公園に入った。人影はなかった。管理人さえ見当たらない。朝夕の賑わいが嘘のようだ。<BR>

 正面から来るか、右手から来るか。どちらから来てもすぐに身を隠せるような巨木はないが、半身になれば弾よけになる熱帯樹は無数にある。それより門の側にあって、左右に伸びる散歩道から二、三メートル引っ込んだレンガ造りのトイレがいい。臭いの攻撃を我慢すれば消音銃に狙われることはない。門をのり越えようとする者に後ろから飛びつくこともできる。ビリーはトイレの傍にうずくまった。一分、二分・・・<BR>

 狙撃者は斜め正面の茂みから姿を現した。舗装された散歩道を素早く突っ切り、並木の背後に身を隠した。ビリーから見れば背中ががら空きだった。撃ち損じるのが難しいほどの距離にいる。文字通りのシッティング・ダック。だがにわか作りのラーメン屋に武器の用意はなかった。素手で消音銃に対抗するには万に一つの隙を突かなければならない。弾倉が空という場合もありうる。すくなくともデビッドの襲撃に五、六発は撃ってるはずだ。とすると残りは多くて二発。チャンスはある。<BR>

 およそ二十メートル前方で影が動いた。デビッドに違いない。さらにはるか後方にケビンの巨体が黒く見える。ドタドタと地響きが伝わってくるような走り方だ。狙撃手が引金を引いた。一発。生卵を叩きつけたようなこもった音。デビッドが芝生の上に伏せた。遮蔽物がない。危ない!ビリーは息をのんだ。デビッドは伏せた瞬間、横に転がった。もう一発。ガキッという金属音。しめた!弾を撃ち尽くした!<BR>

 狙撃手は空のマガジンを引き抜き、尻のポケットに右手を伸ばした。<BR>

 ワーオッ、予備のマガジンを持ってるぜ!<BR>

 万に一つのチャンスはマガジンをグリップに叩き込み、遊底を滑らせる一瞬の間だった。ビリーは突進した。体当たりして銃身を掴んだ。銃身が熱い。二人は舗道に転がった。相手の指が引金を引きっぱなしだ。空にむかって連続して弾が飛び出す。ビリーは馬乗りになって相手の腕を折曲げた。銃口が一気に相手の喉元に向いた。間抜け、トリガーから指を離せ!<BR>

 弾が咽から頭蓋骨へ抜けた。脳漿が飛び散る。ビリーの全身から力が抜けた。<BR>

茫然として立ちあがった。マフィアを相手にする限り、遅かれ早かれ手を汚すことになるのは分かっていた。しかし実際にことが起きてみるとそれを直視するのは難しい。18歳の殺人者。ビリーは救いを求めるように駆けつけてくるデビッドを見た。<BR>

「サイレンサーに丸腰で飛びつくなんて誉められた方法じゃないぞ、ビリー。その上頭半分吹き飛ばしちまったか」デビッドはすべて承知の上でビリーを挑発した。<BR>

「他にどうすればよかったんです?オーナーが撃たれるのを震えて見てればよかったんですか」<BR>

「感心したやり方じゃないが、度胸だけは買ってやる」<BR>

「殺しちまったのもご不満のようですね」<BR>

「いや、本音を言えば大いに喜んでいるんだ。愛弟子のこんな姿は見たくないからな。悪党が頭半分なくしたって誰も同情はしないがね」<BR>

「悪党でも人間ですよ、俺は人殺しになっちまった。同情はしてないが、真っ暗な穴に落ち込んだ気分です」<BR>

「忘れろ。憂鬱な面はおまえに似合わない。後始末はプラパットに任せよう」<BR>

 デビッドは死体のポケットを探ったが、所持を義務づけられているIDカードは出てこなかった。<BR>

「悪党に法律を守れと言う方が無理か・・・こいつ、どこかで見たことがあるんだが」<BR>

「お忘れですか。年は取りたくないもんですね」<BR>

 そこへケビンがようやくたどり着いた。咽をゼーゼーいわせている。<BR>

「お年寄りがもう一人ご到着ですよ」<BR>

「無駄口が叩けるようになって結構だな、ビリー。で、こいつはどこのどいつだ」<BR>

「同業者ですよ。元ランカー。八百長試合を仕組んで追放されてます。二年くらい前ですね。リングネームはカルソート・ワンスパー」<BR>

「こいつの片割れはどうした、デビッド」ケビンが訊いた。<BR>

「二股道で堀に沿って逃げていったよ。そっちはきみを当てにしてたんだが」<BR>

「殴り合いなら当てにしてくれていいが、ランニングは餓鬼の頃から苦手でね、どうやら一周遅れでゴールに着いてしまったようだな」<BR>

「サラシン側はソッ・ティールが先回りしている。ケビン、もう一度ランニングだ」<BR>

「先に行ってくれ。俺は藪を捜してみる」<BR>

「蛇に咬まれないように用心しろよ。ビリー、走ろう」<BR>

「走るのは俺の仕事ですからね、いくらでもやりますが、もう手遅れと違いますか。ソッ・ティールが十人いたって捕まりませんよ、この広さじゃあね」<BR>

「カルソートは捕まった」<BR>

「百パーセント偶然ですね」<BR>

「いや、優れたボクサーはいい勘を持っているし、ツキにも恵まれる。しょせん三流のボクサーは殺し屋になっても三流だな」<BR>

「オーナーと俺は三流が相手で助かった」<BR>

「チャイナ・シンジケートを甘く見るなよ。次はどんな手を打ってくるか。ソッ・ティールが片割れを捕まえていれば手掛かりができるかもしれん」<BR>

 二人は正門まで駈けつけ、そこからは慎重にラジャダムリ通りに沿ってサラシンに向かった。人工池の面が防犯灯に照らされて光っている。中央には島があり、その辺りはほの暗い。<BR>

「臆病風に吹かれて逃げ込むとしたらあの島ですかね」<BR>

「よし、きみはここで張ってくれ。私はサラシンまで調べてみる」<BR>

 デビッドはオートマティックを右手に握ったまま、池の畔を辿った。一人で追うとなると公園は広すぎて手に余った。ビリーの言うとおり、ソッ・ティールが十人いても足りない、代わりに鼻のきく猟犬が三頭いれば、とデビッドは思った。野外レストランの調理室の背後で人影が動いた。デビッドは折り畳み積み重ねてあるテーブルの脇に身を寄せた。<BR>

「デビッド、私だ、ソッ・ティールだ」黒い影が声をひそめて言った。拳銃を脇腹に突きつけられて言わされているのかもしれない。<BR>

「手を上げて出てこい」デビッドはオートマチックを構えて命じた。背の高い細身の体が目の前に立った。<BR>

「今日は散々ですね、昼間はドジ踏んで、夜はこんな格好させられて」ソッ・ティールは苦笑していた。「手をおろしていいですか」<BR>

「どうやらネズミに逃げられたようだな」デビッドはオートマチックをホルスターに納めて言った。<BR>

「尻尾の先でも目に入れば追っかけるんですが、影も形も見えないんで、今まで馬鹿面ぶらさげてました」<BR>

「昼の二人組はどうした?」<BR>

「ミャンマー大使館に逃げ込みました。夜になってまたオーナーを襲った。とんだ連中に好かれたもんです」<BR>

「ミャンマー大使館が巣か。厄介なところに作ったな」<BR>

「オーナーの方も収穫なしですか」<BR>

「頭を吹っ飛ばされたネズミ一匹。プラパットに掃除を頼まないといかん」<BR>

「ミャンマー大使館周辺、狙撃現場周辺に網を張るように手配してもらえませんか」<BR>

「プラパットに連絡して来る。君はビリー、ケビンと島の中を捜してくれ」<BR>

 ネズミの片割れは消えていた。広い公園内でネズミ取りは難しい。三人は手ぶらでそれぞれのねぐらに戻った。ケビンはソイ・ランスワンのデビッドの家、ソッ・ティールはバイヨクのアパート、ビリーはシンサンジムに引き揚げた。 同じ頃、「マルチ・カラー・ジュエリー」から引き揚げた男たちがいた。デビッドが店を出た直後、合鍵を使って店に侵入し、大暴れしていった。<BR>

 翌朝、デビッドはその活躍ぶりを見て怒りより先に苦笑いをもらした。店の什器という什器はすべて壊されている。支配人室の書類、伝票類はすべて破られ、ソファー、皮椅子は切り刻まれていた。しかし店の宝石類や重要書類を納めた大型金庫をいじった形跡はない。物盗りの仕業ではない。デビッドに集中するあからさまな脅しに見えた。<BR>

 開店するにはおそらく二週間はかかるだろう。内装も什器も替えなければならない。デビッドは何事もなかったように平然とケビンと三人の女店員を指揮して後片づけをはじめた。ソッ・ティールは相変わらず歩道でラーメン屋をやっている。ビリーと巌はその夜から店に泊り込んだ。<BR>

美容コスメ千家

 三日後。スクムビット通り一〇五、ソイ・ラサールのバンコク・パタナ校の下校時。デビッドの妻ナンティヤは一人娘エミリーを学校の駐車場で待っていた。スクールバスでもシンサンジム近くのソイ五十二まで三十分はかからない。しかしナンティヤはスクールバスを降りてからジムまでの道のりを心配して車でエミリーを送り迎えしていた。まもなくいつものようにエミリーが笑顔で手を上げ、小走りにかけよって後部座席に乗った。後方で様子をうかがっていた男がフルフェイスのヘルメットをとり、オートバイのサドルにゴム紐でしばった。車が動き出す前に運転席の窓を軽く拳で叩いた。男はいかにも深刻そうな表情を作っていた。ナンティヤが窓を開けて訊いた。<BR>

「あら、ウィラワット、どうしたの?」<BR>

「奥さん、オーナーがまた襲われました。怪我をして入院しています。病院までご案内するよういわれました」<BR>

 ナンティヤの顔から血の気が引いた。ウィラワットが後部座席に乗り込んだ。「パパ、怪我をしたの?」エミリーが泣き声で訊いた。<BR>

「うん、ちょっとね、大したことない、すぐ治るって」<BR>

「ウィラワット、それ、ホント?」<BR>

「はい、そう聞いています」<BR>

「病院はどこ?」<BR>

「ラムカムヘン病院です」<BR>

「バンカピ地区の道は分からないわ」<BR>

「シーナカリン通りに出て道なりに行って下さい。ラムカムヘンの交差点で左折します」<BR>

「ケビンはお店?」<BR>

「いいえ、オーナーに付き添っています」<BR>

 ナンティヤは自動車電話を取った。ウィラワットの態度が変わった。<BR>

「電話はダメだ!」<BR>

「なぜ?」<BR>

「これからは私の指示に従うんだ。下手に動くとエミリーが怪我をする」ウィラワットは薄手のジャンパーのジッパーを下ろして、ミラーを凝視するナンティヤに内懐を見せた。「こいつはかなり強力でね、可愛い娘の顔をぐしゃぐしゃこともできる。怪我ですんだらメッケモンだな」<BR>

 ナンティヤは電話をおいた。「デビッドの入院は嘘なのね」<BR>

「オーナーはタフだ。多少のことではへこたれませんね。だから奥さんと娘さんを預かった。ボスを追っかけるのをやめれば、奥さんと娘さん、無事に帰れます。誘拐はやさしい。身の代金を取るのが難しい。これ、世間の常識。しかしボスは身の代金が目的じゃない。仕事の邪魔をする奴は痛い目にあうという警告だ、私にはそう言ってました。ホントのところは分かりませんが」<BR>

「あなたはトレーナーでしょう、練習生の相手をしていれば大事にされるのに<BR>

いつからマフィアの手下になったの。行き着く先はそれこそ世間の常識通り、牢屋ですよ。今からでも遅くないわ、馬鹿なことはお止めなさい」<BR>

「奥さんはやさしい。エミリーは可愛い。でもそれ以上にボスには厄介になってるんだ。ボスのように金は要らない、と言ってみたいが、俺たち、三下は情より金に弱い。金を借りておいて、ボスに逆らうわけにはいかないんでね、ボスの命令通り、おとなしくついて来てくれ」<BR>

「ムエタイ賭博に負けたの?それとも八百長試合を仕組んで負けたのかしら?どちらにしても人殺しをするよりマシよ。そんなもの、さっさと捨ててしまいなさい」ナンティヤは顎をしゃくって言った。<BR>

「あんたはボスの怖さが分かっていない。せいぜい今のうち威張っておくことだ」<BR>

「デビッドはあなたの思っている以上にタフよ。脅しには決して負けない。悪党のお先棒を担ぐより、デビッドの助けを借りなさい」<BR>

「ただの脅しかどうか、すぐに分かるさ。ロータスの駐車場に入れ。仲間を乗せる。騒いだらエミリーの命はない」<BR>

 パタナ校の正門付近からオートバイで尾けて来た男がヘルメットをとって助手席に乗込んだ。男はルンピニ公園の襲撃以来、麻薬取締局第二課にマークされているのを知らない。このときも背後にプラパットの部下を連れていた。<BR>

「あなた、ムエタイボクサーでしょ。見たことがあるわ」ナンティヤは男の横顔をじっと見据えて言った。<BR>

「そうかい、そりゃあ光栄だ。もっとも最近ぱっとした成績は残しちゃいないが」<BR>

「悪事に忙しくて練習する暇がなければ当然ね」<BR>

「奥さん、彼を怒らせない方がいい。シンサンジムには好意を持っていないんだ。シンサンジムがグルになって兄貴の頭をぶっ飛ばしたと思っている」<BR>

「そう、あなた、弟さんなの。お兄さんはお気の毒なことになってしまったけど、でもそれは逆恨みよ。デビッドを先に襲ったのはあなたがたでしょ。こんなことをしていたらまたお兄さんのようになるかもしれない。早くマフィアから手を切らなくちゃダメ」<BR>

「テメエが消されかかってるのに説教してやがる。いい度胸してるぜ、このアマ。どこまで気取っていられるか、三十分もしたら試してやらあ」現役ボクサーの口調が突然荒々しく変わリ、凶暴な性格を剥き出しにした。<BR>

「三十分でアジトにつくわけね。そんなに近いところにいて見つからないでいられると思う?麻薬取締局が中国人マフィアを追っかけているの、知ってるでしょ。カンチャナブリで手錠かけたまま七人も撃ち殺したの、麻薬取締局ですよ。ウィラワット、お願いだから考え直してちょうだい」<BR>

「どうする、パンサック。優しい奥さんがお願いしてるぜ」<BR>

「もっとお願いされてみてえや。お願い、もうやめて・・・」パンサックが裏声で女の声を真似た。<BR>

「ママに変なことしたら、パパが承知しないからね」<BR>

「おっと、お嬢さんがいるのを忘れてた。レディーの前では行儀よくしろよ、パンサック」<BR>

「親子そろって気が強いな。悪くねえ。苛めがいがあるというもんだ」<BR>

「こいつは兄貴を殺されて気が立ってるんです。当分、言いなりになった方がよさそうですね、奥さん」ウィラワットが笑いを押し殺しながら言った。<BR>

「聞く耳持たない人にいくら言ってもしょうがないわね。勝手になさい」<BR>

「けっこうです。そうやっておとなしくしてもらえれば手数が省ける。私は乱暴が嫌いだ、なにしろ仕事柄、毎日パンチやキックの練習台になってるんでね、殴り合いはうんざりなんですよ。とくにご婦人をいたぶるなんてことはやりたくない。しかしパンサックは違う。ばりばりの現役だ。若くて生きがいい。精力を持て余している。お気の毒な結果になるかもしれませんな」<BR>

「脅しは立派な暴力よ。それに人を誘拐しておいて、乱暴は嫌いだ、なんて言い草が通ると思ってるの?」<BR>

「おっしゃる通りだ。いい子ブルのはやめましょう。そこを左に曲がってくれ」<BR>

 車はラップラオ通りを直進し、再び左折してラムカムヘンのソイを走り、運河沿いに建つ高級アパートの地下駐車場で停まった。<BR>

「一階のフラットは我々が使っています。ボスがオーナーだから使おうと思えば一階から七階まで全部使えるんだが、二階以上は一般市民に住んでもらっています。そのほうが疑われずにすみますからね。おとなしくしていただければ睡眠薬を飲ましたり、ヘロインを注射するなんて手荒な真似はしません。私の目の届く範囲は、あるいはボスの指示があるまでは、という条件付きですが。ではお嬢さん、おりて下さい」<BR>

「いや!」<BR>

「オヤオヤ、嫌われちまったか」<BR>

「エミリー、言う通りにしなさい」<BR>

「ママの言うことを聞いて。駄々をこねると叱られますよ」<BR>

「・・・」<BR>

 エミリーは黙り込むことで精一杯の抵抗を示した。ウィラワットはエミリーに付き添い、運河側にある非常階段を上って一階の鉄扉を開けた。パンサックはナンティヤの背後にほとんど羽交い締めのようにぴたりと身を寄せていた。広い廊下の両側に部屋がある。ウィラワットは非常口に近い部屋のドアを開け、スイッチを入れた。天井に近い位置に小さい明かりとリがあるだけで窓がない。はじめから悪事に使うために作った部屋らしい。<BR>

「不細工な部屋だが、トイレ、シャワー、エアコンはついている。ご覧の通りベッドもある。しばらくこれで我慢してもらおうか。ボスが来たらもっと不便を強いるかもしれないが」<BR>

「ウィラワット、なんにもしねえで放っておくのかよ。俺はムシが収まらねえぜ」<BR>

「ボスの命令だ。おまえもしばらく待つんだな」<BR>

「ウィラワット、パンサック、私の部屋へ来て」マンションの経営を任されているポーンがドアを開けて言った。<BR>

「ネーさん、こいつら、どうします?放っておくんですか」パンサックが不満気に訊いた。<BR>

「騒がれるとうるさいから口をふさいでちょうだい」<BR>

「手が自由じゃ猿轡かませても勝手にとってしまいますぜ」<BR>

「なんだい、トーシローみたいに。一々いわれなきゃ分かんないのかい?」<BR>

「ちょいと遠慮してんです、丁重に扱うのがボスの命令らしいんで」パンサックがウィラワットを伺いながら言った。<BR>

「手足ぐらい縛らなきゃおもてなしにならないだろ。ウィラワット、ぼんやり突っ立てないでさっさとやっちまいな」ポーンが焦れったそうに言った。<BR>

 二人が仕事をすませてポーンの部屋へ入ると、いきなり金切り声があがった。<BR>

「おまえたち、ドジ踏んだよ、デカを連れてくるなんて。ボスがむちゃくちゃ怒ってるわ。パンサック、おまえ、ルンピニでへまやらかしてからズっと尾けれていたんだ、自分のまいた種だ、きれいに刈っておしまい」<BR>

「きれいには殺らねえ、目も鼻も分からねようにしてやる」<BR>

「ぐずぐずしてる暇はないからね、ここを張ってるデカからプラパットに連絡がいってるんだ。奴が来る前に片付けておくれ」<BR>

「畜生、またあいつか・・・兄貴は表を当たってくれ、俺は駐車場を見る」パンサックはサイレンサーの弾倉を確かめるとウィラワットに言い捨てて裏口に向かった。ウィラワットは日除けのシャッター越しに、表通りをざっと見渡してからポーンに言った。<BR>

「あそこで新聞をひろげてる野郎がいますね、デカの看板見せびらかしてるような間抜けな野郎だ。ネーさんのきれいなおっぱいをチラチラさせてほんのちょいと奴の気を引いてもらえませんか」<BR>

「ほんのちょいとでいいのかい。なんなら一時間でもかまわないよ」<BR>

「ヘー、たいそうな自信ですね。さしあたって時間がないんです。ネーさんの腕のほどはこの次じっくり見せてもらいましょう」<BR>

 ポーンは通りを突っ切り、雑貨屋の前の石のベンチに腰かけている男に近づいた。男の視界を遮るように立って何か話し掛けている。ウィラワットは渋滞する通りの車に隠れて男の背後に回リ、ジャンパーのポケットに入れたオートマチックの銃口を男の首に押しつけた。<BR>

「ネーさんがベッドにお誘いしてるんだ、機嫌良くついていくんだな」<BR>

 ポーンが男から離れて筋向かいのマンションに戻って行く。男は渋々立ち上がって言った。「デカを脅すなんて悪い冗談だ。後でろくなことにならねえぜ」<BR>

「ろくなことにならねえのはおまえさんの方だろうな。冗談かどうかとっくり見せてやる」<BR>

 ウィラワットが麻薬取締局の刑事をアパートの地下駐車場に拉致したとき、パンサックはすでに仕事を終え、白いカローラの傍らに立っていた。ウィラワットはパンサックにトランクを開けさせた。ビニールシートの下から足がはみ出ているのが見える。<BR>

「どうだ、冗談じゃねえのが分かったか」<BR>

 刑事はとっさにウィラワットに体当たりをかませて走った。パンサックのサイレンサーが刑事の体をコンクリートに叩きつけた。<BR>

「腕を上げたな、パンサック」ウィラワットが余裕を見せて言った。<BR>

「こいつ、やけに重いや、足を持ってくれ、兄貴」パンサックが刑事の両脇に手を入れ持ち上げるながら言った。<BR>

「ホントだ、固太りのいい体してるな。デカの給料でいいもの食えるわけねえんだが」ウィラワットが両足を持って応じた。<BR>

「いい体もお陀仏になっちゃ面倒なだけだ、この糞っ垂れが・・・」パンサックは刑事の上体をトランクに投げ込んだ。ウィラワットは刑事の足を折り曲げ、ビニールシートをかけ、トランクの蓋を閉めた。<BR>

「ヤバいぜ、兄貴」パンサックは駐車場入ってくるパトカーに気づいて言った。<BR>

「落ち着け、車に乗って様子を見よう。プラパットの部下とは思えん。早すぎる」<BR>

 制服警官が二人、ウィラワットの方には目もくれず、一階の非常口へ向かった。ポーンは警官を見ても驚かなかった。むしろ手下を従えるようにして、人質を監禁している部屋に入った。ベッドに横たわっているナンティヤとエミリーは物音がしても動かなかった。<BR>

「麻酔を打って眠らせておいたよ。手数がかからなくていいだろ。二課が来るとうるさくなる。早いとこ連れてっておくれ」<BR>

 非常口から二人の警官がナンティヤとエミリーをおぶって出てきた。ポーンが付き添っている。救急隊員と看護婦といった態だった。ポーンは辺りをうかがい、異常なしとみるや足早に白いカローラに近づいた。<BR>

「これはデカの車だろ?あいつら、どこにいるんだい?」<BR>

「トランクの中でオネンネです」パンサックが親指で後方を差して薄く笑った。<BR>

「無粋な連中だね、そんなとこで抱き合うなんて」<BR>

「この車とナンティヤの車、どうします?」パンサックが訊いた。<BR>

「スーパーの駐車場に捨ててきな。ウィラワット、あんたはまだお面が割れてないようだから、ジムに戻ってデビッドの動きを見張っておくれ。隙があったらバラしちまいな。パンサック、あんたはこの車を処分したら城においで。私たちは一足先に行くよ」ポーンは小声で指示を与えるとパトカーに乗込んだ。三台の車は相次いでマンションの地下駐車場を去った。<BR>

ブランドもの千家

 三時過ぎ、プラパットから緊急の電話を受取ったデビッドは、ただちにシンサンジムの会長、山室に連絡し、さらに表で屋台を出しているソッ・ティールに客を装いながら伝えた。<BR>

「ナンティヤとエミリーが誘拐されたらしい。私はプラパットと動く。君は今までの線を手繰ってくれ」<BR>

 ソッ・ティールは頷き、手早く屋台を片付けはじめた。<BR>

 午後の練習が始まってまもなく、ビリーと巌は山室に呼ばれた。<BR>

「今、オーナーから電話があった。奥さんとエミリーがさらわれたらしい。オーナーは自分で捜すつもりだ。おまえたちに手伝ってくれとは言っていない。しかし・・・」<BR>

「なにグダグダ言ってんですか。それがホントなら一秒でも早く現場に行かなくちゃあ。場所はどこです?」巌がバンデージをもどかしげにほどきながらつっかかった。額や胸から汗が吹き出している。<BR>

「ラムカムヘン、ソイ五十五。センセープ運河の側に立つ高級マンション」<BR>

「チェッ、なんてこった。奴等が汚い手を使うことは初めから分かってたんだ。<BR>

ここんとこ、オーナーばかりにちょっかいかけてきたのは奴等の陽動作戦だったかもナ」ビリーが舌打ちして言った。根っからのムエタイ戦士、ビリーはシャドーやサンドバッグ相手の練習くらいでは汗は流れない。<BR>

「学校の行き帰りはもっと注意しておくべきだった。ここには護衛向きの若い衆がいくらもいるのにな」<BR>

「悔やんでる場合じゃないですよ、会長」ティーシャツ、ジーンズに着替えた巌がどなった。<BR>

「まったく。後悔なんて会長の柄じゃない。いつも通り大威張りで気合いをかけていりゃあいいんです。待ってて下さい。なんとかしてきますから」ビリーはカルソートの後頭部を吹き飛ばして以来一皮剥けた。軽薄な部分が減り凄味が増した。<BR>

「ナンティヤとエミリーの命がかかっている。むろんオーナーの命もだ。軽はずみな行動はとるな」<BR>

「月並みな説教は後回しにしてください。ビリー、早く乗れ」巌がバイクのエンジンを吹かしながらせっついた。<BR>

「今度も丸腰か。元気がいいな。しかし元気だけじゃ通用しねえ相手もいるんだぜ」ビリーがサドルにまたがってからかった。薄手のジャンパーの左懐がふくらんでいる。<BR>

「おまえみたいなガンマニアはなりたくないね。殺しは殺しを呼ぶ。だんだんソッ・ティールに似てきたぞ、おまえ」  <BR>

「お兄ちゃん、わたしも連れてって」トレーナー姿の桃子がせがんだ。<BR>

「ダメ、ダメ、女の子が首突っ込むような場合じゃない。巌、急げ。一時間おきに電話を入れるんだ」山室が桃子を引き離した。<BR>

「桃子はまだ無理だな、そのうち連れてってやるよ、今は練習第一・・・」ビリーがいい終わらないうちに巌はバイクを発進させた。<BR>

「待ってる方がよっぽど大変なのが分からないのかしら。エミリー、奥さん、ビリー、お兄ちゃん、ああ、焦れ焦れする。どうしたらいいの、会長」<BR>

「練習するほかないね。早く強くなって一緒に現場に出るんだな」<BR>

「会長までそんな暢気に構えちゃって。心配じゃないの?」<BR>

「そりゃあ、心配さ。だけど、わたしはオーナーを信頼している。巌とビリーは優秀なムエタイ戦士だ。無事に戻って来るさ」<BR>

 巌とビリーは四時頃ラムカムヘンの現場に着いた。人質が監禁されているとすればうかつに建物の中には入れない。マンションの玄関はソイを隔てた雑貨屋の真向かいにある。異変があればこの雑貨屋が真っ先に気づくはずだ。ビリーはバイクを下りて缶コーヒーを二つ買い、店番をしている茶色の半ズボンにランニングシャツを着た親父に訊いた。<BR>

「向こうのマンション、立派だねえ、もしかしておヤジさん、経営者?」<BR>

「年寄りをからかうもんじゃないよ。そんな金があったら、もっとましな店をやってるさ」<BR>

「誰がオーナー?中国人?」<BR>

「らしいね、管理人は若い女だ。噂じゃあ、ミヤノイらしいな」<BR>

「二号か。美人かい?」<BR>

「凄いおっぱいしてるぞ。年寄りのワシだってかぶりつきたくなるくらいだ」<BR>

「ヘー、俺にも拝ませてもらいたいな。店にはちょいちょい来るの?」<BR>

「いや、ほとんど来ないね。今日はどういうわけか、そこで新聞呼んでた男に愛敬ふりまいてたよ。その男、女についていって、それっきり音沙汰なしだ。今頃はいい思いしてんだろ」<BR>

 ビリーは礼を言って雑貨屋を出た。おそらく刑事の一人はマンションへ入った。それで騒ぎが起きないのは人質がいないか、雑貨屋の言うとおり、女に丸め込まれたかだ。   <BR>

「俺はおっぱい美人を拝んで来る。十分たっても帰ってこなかったら、おっぱいの谷間に轟沈したと思ってくれ」<BR>

「おまえがどこで沈もうと知ったことか。人質を助け出すのが先決だ。よく覚えとけよ」<BR>

「フン、友達甲斐のない野郎だ。じゃあな」ビリーは手を上げ、雑貨屋に入るのと同じ態度でマンションの玄関に向かった。確かにビリーは変わった。ルンピニの一件以来、度胸の据えかたが違う。修羅場に飛び込むとき、以前なら目をつぶるところを今はしっかり開けている。ムエタイでいえばパンチや蹴りを見切っている。だからスエイ・バックに無駄がない。巌は口では毒づきながらビリーに任せて安心するところがあった。                                  ビリーは管理人室のブザーを鳴らした。しばらくすると少年がおどおどした表情を覗かせた。<BR>

メンズ千家

「管理人を呼んでくれないか」<BR>

「出かけました」<BR>

「一階に住んでる人で誰かいないかな」<BR>

「みんな留守です」<BR>

「きみはここに住んでるの?メイドさん?」<BR>

「はい、掃除とか留守番とかやってます」<BR>

「じゃあ、合鍵を持ってるよな」<BR>

「いいえ、ポーンさんが全部管理してます」<BR>

「ポーンさんてここのオーナーだろ?凄い美人だってナ」<BR>

「ええ、スゴイです」少年は初めて緊張を解いて笑った。<BR>

「ここでなんか変わったこと、起きなかったかな?」<BR>

「いいえ、なにも」少年はふたたび顔をこわばらせた。まだ分厚い皮に覆われていない少年の表情は読みやすい。<BR>

「ごたごたに巻き込まれたくなかったら、今のうちに話してくれないか。俺は警察のおエラ方に知り合いがいるんだ。きみが連れていかれてもその幹部に言えばかばってもらえるんだけどな」<BR>

「警察ならもう来ました。おかあさんと子供をおぶって行きました。ポーンさんも一緒です」<BR>

「いつ?」<BR>

「十五分くらい前」<BR>

「ワーオッ、一足違いか。で、どこへ行った?」<BR>

「分かりません。近くの警察署か、病院でしょ?」<BR>

「まともな解釈をするね、きみ。おトボケなら役者になれるぜ」<BR>

「なんのことですか?」<BR>

「一階はみんな留守だと言ったね。疑うわけじゃないけど、一応確かめてみたいんだ。手伝ってくれないか」<BR>

 少年は部屋毎にチャイムを鳴らした。ビリーは扉に耳を押し当てて内部の様子をうかがった。どの部屋にも人の気配はなかった。ビリーは非常階段から地下の駐車場に下りた。四時過ぎのマンションの駐車場にとまっている車は少ない。ビリーは一台一台窓越しに車内を見てまわった。二人の持ち物はないか。争いのあとはないか。車からは何の手掛かりも得られなかったが、コンクリートの上に目を走らせたとき、ビリーは大きなシミを見つけた。駐車場によくあるオイルの黒いシミではない。赤黒い痕。急いで始末したとみえ、拭った痕がわずかに縞目になって残っている。紛れもないマフィアの爪跡だった。事態はますます悪い方に進んでいる。<BR>

遊び千家

 ビリーは携帯電話でデビッドと山室に現場の模様を報告してから管理人室に戻った。<BR>

「なにか分かったか、ビリー」巌が急き込んだ声を上げた。傍らに少年が不安げに立っている。<BR>

「みんな、どこかへ消えちまった。刑事二人はホントに消えたかもしれない。頼みはきみだけだ」ビリーは少年に視線を向けた。「きみ、名前は?」<BR>

「レック。知ってることはもうこの人に話しましたけど」レックは巌をチラッと見上げた。<BR>

「ポーンの旦那はどこにいるのかな」ビリーはレックの返事を無視した。<BR>

「知りません」<BR>

「旦那はここに来るんだろ?」<BR>

「いろんな人が来るからわからないんです」<BR>

「ずいぶんとお盛んなんだな」<BR>

「客は客でも色事じゃないらしい」巌が口を挟んだ。<BR>

「ヤクか?」<BR>

「だろうな。レックの言うとおり、一週間とか十日に一度の割でいろんな人物が現れるとすれば、そいつらを追って胡光伸にたどり着ける」<BR>

「アホ。プラパットの電話さえ盗聴する連中だ。今頃は連絡済みだろう。チンピラだって寄付きはしないさ」<BR>

「だったらこれ以上ここにいても時間の無駄じゃないか」<BR>

「焦ったって時間は取り戻せない。それよりレックに思い出してもらったほうが早そうだ。ポーンの旦那がここに来ないとすれば女の方から出かけるのが筋だ。どこへ出かけていたか、覚えているかな」<BR>

「お城へ行く、と言ってました。どこにあるのか知りません」<BR>

「お城?いいね、悪党の巣らしくて面白い」<BR>

「面白がるな。ナンティヤとエミリーの命がかかってるんだ」<BR>

「深刻ぶったって救えるわけじゃない。レック、ポーンは何を使ってたんだ、車か、飛行機か」<BR>

「日帰りのときもあったから飛行機かもしれない」<BR>

「日帰りだから飛行機か。ビエンチャン、プノンペン、ヤンゴン、ペナン、どこも一時間くらいで行ける所ばかりだ。これじゃあ、さじを投げろ、と言うようなもんだ」巌が諦めかけた。<BR>

「いや、日帰りで外国は無理だろう。国内の線はあるけど、今度の場合、人質抱えて飛行機には乗れない。俺の勘じゃあ、車で片道2、3時間、バンコク郊外だ」<BR>

「それにしても北にアユタヤ、南にパタヤ、西にカンチャナブリ、主な町だけあげたってきりがない。キーワードはお城だな、地元の人間ならすぐ分かるんだろうが」<BR>

「まともな警察だったらこれだけ絞れば捜せるんじゃないか。ましてプラパットは特別捜査班だろ。お城ぐらいはつきとめてほしいもんだ」<BR>

「オーナーご用達の殺し屋が今頃はつきとめてるかもしれない」<BR>

「ソッ・ティールか、あいつはどうも虫が好かねえ。一人で勝手に動くし、何でも隠したがる。腹の中でなに考えてるかわかんねえ野郎だ」<BR>

「オーナーの指示があるんだろう。もともと殺し屋なんてニンジャみたいな所がなきゃあつとまらねえさ」<BR>

「俺はあいつの根っこにある冷や冷やしたものが気に入らねえ」<BR>

「ビリー、それはおまえの言う台詞じゃない。磁石のマイナス同士が反発してるようなもんだ」<BR>

「口が過ぎるぞ、巌。俺を薄汚い殺し屋なんかと一緒にするな」<BR>

「ソッ・ティールはクリーンだと思うね。金で転ぶような男じゃないし、狙うのは悪党だけだ。アフィアを迷わず殺すのを汚いだの、冷酷だのと非難するのは当たらない。俺は掛け値なしに賞賛するね。本人を前にしてこう言うのはなんだが、ソッ・ティールに一脈通じるお前には逆立ちしてもかなわねえ所があるよ」<BR>

「それで誉めてるつもりか。俺には熱い心があるぜ。あんな冷血動物と一緒にするな」<BR>

 その頃、「冷血動物」ソッ・ティールはスクムビットのソイの入口で網を張っていた。五時五分前。ウィラワットが大通りからソイに折れてモーターサイの溜り場に寄った。ソッ・ティールの見込み通り、ウィラワットはモーターサイに乗り、シンサンジムに戻った。<BR>

 シンサンジムは活気がなかった。ナンティヤとエミリーが行方不明、それを追ってビリーと巌が慌ただしく出かけた後では、練習に身が入るわけもなかった。桃子を含む八人の練習生、三人のトレーナーはいっとき心配を忘れるために体を動かしているといった態だった。会長の罵声が空回りしていた。ウィラワットは会長に遅参を詫びてリングに上がった。チーフトレーナーだけあって練習生のミットを叩く勢いが変わった。ウィラワットは普段より荒っぽく練習生をシゴいた。<BR>

 ソッ・ティールは十五歳のときから五年間、ムエタイボクサーだった。将来のチャンピオンと注目を浴びていた頃、カルソートと試合をしたことがある。カルソートはランカーだったが、ソッ・ティールの敵ではなかった。組織とのつながりを噂される落ち目のランカーと若手有望株との試合は二ラウンド前半あっけなく終った。ソッ・ティールのハイキックが左こめかみに炸裂し、カルソートは昏倒した。<BR>

 ソッ・ティールはパンサックの所属するジムのトレーナーに手を回していた。活動資金はプノンペンで得たドルがたっぷりある。スキヤキ屋に招待し、カラオケ店でシーバスを奢った頃にはトレーナーの舌は滑らかに回転していた。ウィラワットとカルソート・パンサック兄弟との関係は簡単に割れた。ウィラワットが兄弟を操り、組織がウィラワットを動かしている。<BR>

 ソッ・ティールはナンティヤとエミリーの行方不明をデビッドから知らされたとき、ウィラワットに狙いを絞った。組織の襲撃を避けるためジムで寝起きしていたナンティヤとエミリーの行動についてウィラワットは逐一心得ている。こんどの一件にウィラワットがかんでいないはずはない。<BR>

 ソッ・ティールはソイの入口にたむろするオートバイタクシーの運転手に変身した。本物には一週間分の稼ぎを前渡ししてある。ウィラワットの出方をここで窺うつもりだった。<BR>

 バンコクの雑踏を抜けておよそ八十キロ南に下ると海沿いの町バンセーンに至る。午後六時半過ぎ、一台のパトカーがこの町に近づいていた。首都から続く大通りを右折して五分、さらに右折して海沿いを走った。<BR>

「左手に白い建物が見えるだろ。あそこへ行っておくれ」とポーンが指示した。 ハンドルを握る警官が頷いた。左手に伸びる砂浜にも、連なるビーチパラソルの下にもほとんど人影はない。両側を高いヤシの木に囲まれた遊歩道はすでにオレンジ色の街灯がついていた。砂浜が途切れる辺りに漁船が数多く繋がれていた。ここから海岸線は大きく湾曲し、右手には小高い丘があらわれる。パトカーはしばらくなだらかな坂道を上って停まった。<BR>

 ポーンは監視カメラの下に立ち、ブザーを鳴らした。二人のガードマンが高い鉄の扉を内側に開いた。十数頭の放し飼いの番犬がけたたましく吠えた。パトカーは邸内の車道を海側に向かってくだり正面玄関前で停まった。ポーンがお城と呼んだ白亜の豪邸は、広大な敷地を取り囲む高いコンクリートの塀だけでは満足せず、建物自体をブロック塀で囲わせている。三階建ての豪邸は海浜リゾート地の別荘といった開放的な趣はまったくなく、窓の少ない分厚いコンクリートの塊、マシンガンくらいでは歯のたたないモダーンな要塞に見えた。<BR>

広大な敷地には噴水、花壇、テニスコート、スイミングプールが散在し、オレンジ色の制服を着た掃除夫や庭師がそれぞれの手入れに当たっていた。プールからかなり離れて射撃場があった。海側に砂袋が無造作に積まれ、その前に標的が置かれていた。事故への配慮が欠けているのは、海辺が私有地という理由のほかに、おのずとマフィアの性格を示すものに違いなかった。<BR>

 ナンティヤとエミリーは別々の部屋で目覚めた。巨大なモニターが二人を映している。黒壇の机を前にした男が口を開いた。手元にリモートコントロールのボタンがある。<BR>

「気分はどうかな、ナンティヤ」<BR>

「上々とはいかないわね。エミリーはどこ?」<BR>

「別の部屋だ。元気にしている。すぐに声を聞かせてやる」<BR>

「あなたは誰?」<BR>

「わたしに自由に質問できると思うな。質問するのは私だ」男は特徴のぎょろ目をモニターに映ったナンティヤに注いだ。「デビッドの手下の名前を言ってもらえないかな」<BR>

「手下なんて一人もいないわ。手伝ってくれる友人ならいくらでもいるけど」<BR>

「その友人とやらの名前を聞かせてほしいものだ」<BR>

「自分で調べたらどうなの?手下が大勢いるんでしょ」<BR>

「私がおとなしくしている間に知ってることは全部吐くんだ。さもないと後悔することになる」<BR>

「すぐ本性をあらわすのね。ボスらしくもない」<BR>

「私は気が短い。訊かれたことは素直に答えるんだ。デビッドはなぜ私にご執心なのかね」<BR>

「デビッドだけじゃないわ。ONCBもあなたの首をほしがってるわ」<BR>

「麻薬取締局か・・・」男は低く笑った。「一課が私の配下にあるのを知ってるかね」<BR>

「ええ、知ってるわ。二課があなたを追いかけていることも」<BR>

「プラパットか。いずれセンセープ運河の臭い水をたっぷり飲ましてやる。もう一度訊く。デビッドはなぜ私を嗅ぎまわるんだ」<BR>

「・・・・・」<BR>

「そうか、話したくないか。では話したくなるようにしてやろう。私は人をいたぶるのが趣味だ。女だろうと子供だろうと言うことを聞かなければ手加減はしない。さいわいエミリーのいる部屋には責め道具がそろっている。元々そういう部屋に作ったのだ。私は人のうめき声や泣き声を聞いて育った。子守り歌のようなもんだ。ポル・ポトと一緒に戦場をさまよったからな。それが習い性になった。いまでは人をいたぶらないと食欲が出ない。むろん性欲もだ。自慢話は聞きたくなかろう。エミリーを見せてやる」<BR>

 男の声だけが流れていたナンティヤの部屋のモニターにエミリーが映った。天井の滑車から垂れるロープに逆さ吊りにされて揺れている。逆流する血で顔が深紅に染まっている。<BR>

「ママ・・・パパ・・・」エミリーが弱い声を上げた。<BR>

 男は立ち上った。ポーンが男の前にひざまずきチャックを下ろして男の股間に顔を埋めた。男は両手でポーンの頭部を引き寄せ髪をまさぐった。ポーンは苦しがって顔を離そうとするが、男は力を緩めようとしない。その間、モニターに映るエミリーを食い入るように見つめた。<BR>

「エミリー!」ナンティアが叫んだ。<BR>

「ママ・・・」<BR>

「話したくなったか、ナンティヤ」<BR>

「エミリーを下ろしなさい!」<BR>

「泣き叫ぶ年増女をみるのも楽しみの一つでね、もう少し吊るしておこう」<BR>

「あなた、リチャード・ワンと名乗っていた頃、デビッドの両親と妹を刺し殺したでしょ」<BR>

「ホー、それで私にうるさくつきまとうのか。覚えておらんな。ガキの頃から血の海を泳いできたんだ。この手にかけた人間は無数にいる。一々覚えていられんよ」<BR>

「人の顔をした殺人マシン。デビッドが本気であなたとあなたの組織を潰したがっているわけが分かったわ。デビッドばかりじゃない、誰だって殺人マシンなんか一刻も早くこの世から消えて欲しいと願うでしょうね」<BR>

「その前にエミリーが地獄に落ちる事を願うがいい」<BR>

 逆さ釣りになったエミリーがナンティヤの部屋のモニターから消え、男の声だけが降ってきた。<BR>

「子供をどうするつもりなの!」ナンティヤは地団駄踏んで叫んだ。<BR>

「フッフッフ。殺人マシンにも一片の慈悲はある。首を切り裂くところを母親に見せるのは忍びない。悲鳴を聞かせてやってもいいが・・・フッフッフ」<BR>

男は低く笑いながら言った。ナンティヤがドアを叩いたり、把っ手を回したり、<BR>

無益な努力を重ねる姿を見て、男はギョロ目を血走らせた。ポーンの髪を掴み頭を激しく前後に動かした。男の太い鼻柱から荒い息が漏れ、低い笑い声が獣めいたうめき声に変わった。<BR>

 「このままだと死にますぜ」滑車にかけたロープの端を握っていた男が監視カメラに向かって言った。男は胡光伸のボディーガード、ベニス。元プロレスラーのケビンにまけない巨躯の持ち主だった。頭をつるつるに剃っているところもケビンに似ている。<BR>

「デビッドを釣る餌を減らすことはなかろう。下ろしてやれ」下半身を剥き出して仁王立ちなった胡光伸が命じた。ポーンが精液に濡れた男根を舌でていねいに拭っている。<BR>

「子供の介抱が終ったら、母親を慰めてやれ。いたく力落としだからな」<BR>

「ボスはそれを見てお楽しみですか」<BR>

「おまえ、私に仕えて何年になる。分かり切ったことを訊くな」 <BR>

「ボスの方から見えて俺の方から見えないってのは不公平じゃないですかねえ」<BR>

「それがボスと手下の正常な関係だろうが。時間はたっぷりある。せいぜいいたぶって私を楽しませてくれ。それでおまえは増す増す株を上げるはずだ」<BR>

「株よりキャッシュで願いたいもんで」<BR>

「おまえの苛めかたしだいだ。責め道具はそこそろっている。手加減するな」<BR>

 ベニスが先の割れた短い鞭を右手に手錠と鎖を左手に持って部屋に現れたとき、ナンティヤは怯えた表情であとずさった。胡光伸は血走ったギョロ目でナンティヤを追いながらポーンの白い絹のブラウスを引き裂いた。<BR>

 その晩、九時半過ぎ、デビッド邸居間の電話が鳴った。プラパットからの連絡だった。シーナカリンのショッピングセンター、ロータスの駐車場に放置されていた車から二つの死体が発見された。同じ駐車場でナンティヤの車も見つかった。しかしナンティヤ、エミリーは依然行方不明だという。電話は簡潔に事態の推移を告げて切れた。続けて電話が鳴った。ケビン、ビリー、巌が見つめる前でデビッドが受話器を取った。プラパットの部下が逆探知の装置に張り付いた。<BR>

「ナンティヤの声を聞かせてやる」男の声が言った。受話器の向こうで鞭がうなり、悲鳴があがった。合間にかすかに雑音が入る。録音テープだった。<BR>

「これが私のもてなしかただ。気に入ってもらえたかな」<BR>

「エミリーをだせ」<BR>

「ただいま就寝中だ。いささか私のもてなしがこたえたらしい」<BR>

「二人にもしものことがあったら・・・」<BR>

「そう簡単に殺しはしない」男の声が遮った。「デビッド一家には大いに苦しんでもらうがね。二人の顔を見たかったら、デビッド、貴様一人で来ることだ。後日連絡する」電話が切れた。逆探知の係が首を横に振った。<BR>

「胡光伸からだ。二人は奴のアジトにいるらしい。奴の指示を待とう。標的は私だ。奴はかならず動く」<BR>

「プラパットはどうしてるんです?麻薬取締局第二課主任なんて仰山な名前つけやがって、やることといったら死体の処理だけだ」<BR>

「ビリーの言う通りです。二人を運んだのはパトカーですよ。それでどこへ行ったか分からないじゃまるで無能の標本だ。プノンペンの兄貴は何か掴んでるんですか。このところ姿が見えませんが」巌が訊いた。<BR>

「ある筋を追っている。彼のことだ、そのうち吉報を持って来るだろう。プラパットにはドンパチが始まってから手伝ってもらえばいいさ」<BR>

「早く始まらねえと体が鈍っちまう。守りは性分にあわねえ」宝石店とデビッド邸のガード役に回っているケビンが野太い声を出した。<BR>

 二日後。午後十一時。ウィラワットがデビッド邸に向かった。ウィラワットを尾けるソッ・ティールからその知らせを受けたデビッドは、ケビンに庭で迎えうつように指示した。<BR>

「偶然見つけた振りをするんだ。適当なところで逃がしてやれ」<BR>

「元チャンプをいい加減にあしらうのはむずかしい。下手をするとこっちがやられる」<BR>

「何をいうか。プノンペンでは三人掛かりでもきみにはかなわなかった。とにかくノックアウトはだめだ。判定勝ちくらいにしておけ」<BR>

 ウィラワットはブロック塀に刺さるガラス片を持参のスパナでなぎ払った。それからスパナを庭に投げ込み軽々と塀をこえた。植木伝いに身を隠しながら広い庭を屋敷に向かう。と横合いから誰何の声が上がった。ウィラワットは植木を楯に腰を落として身構えた。右手にスパナを握っている。<BR>

「ホーッ、ウィラワットじゃないか。こんな夜分、なんの用だ」<BR>

「貴様に用はない。消えろ」<BR>

「一人できたのか。マフィアにしてはいい度胸だ。俺が相手になってやる」<BR>

 ウィラワットはケビンが素手なのを確かめると、植木の背後から飛び出し一挙に間合いを詰めスパナをふるった。ケビンは唸りをあげて落ちてくるスパナを後退して避けず、逆に左足を踏み出し左腕でウィラワットの右手首を払いあげ、右ストレートを腹に叩き込んだ。スパナはケビンの肩越しを飛び芝生に落ち、ウィラワットは片膝を折り、息苦しさに耐えている。<BR>

「俺のパンチでひっくり返らねえのは身を入れて練習してるってことだ。面白い、本気で揉んでやるぜ」<BR>

 数呼吸おき、ケビンが不用意に近づいたところをウィラワットの蹴りが股間を襲った。続けて膝蹴りが顎に、両肘打ちが顔面に嵐のように降り注いだ。ケビンの顔が朱に染まった。好敵手の出現に興奮し、そのうえ鼻血が吹き出して、赤鬼のようになった。<BR>

 ウィラワットは毎日、練習生の速いパンチを受けている。最初の一発はまともに食らったものの、用心すればケビンのパンチをかわすのは難しくなかった。破壊力はあっても振りが鈍い。一方ウィラワットのパンチや蹴りはいくらでも当たった。しかしケビンの巨体はびくともしない。ウィラワットは組み打ちに持ち込もうとするケビンにしだいに押され始めた。態勢を立て直して脇腹に蹴りを入れたが、疲労で引きが遅くなったところをケビンの左腕に捉まった。ケビンはウィラワットの右足を抱え体を回転させた。二度三度回ってからウィラワットを放り投げた。ウィラワットは立ち木に背中を打ち、芝生に前のめりに倒れた。<BR>

 デビッドは二階の寝室から二人の格闘を覗いていた。ウィラワットが投げ飛ばされるのを見て思わず舌打ちした。<BR>

「バカ、やりすぎだ。立てなかったらどうする」<BR>

 ウィラワットはデビッドの心配をよそに立ち上がり逃げ出した。足元がおぼつかないが、鈍足のケビンより速い。ガラス片を払った塀にとりつき姿を消した。<BR>

 デビッドが携帯電話を取って言った。「ソッ・ティールか。後を頼む」<BR>

 翌日、午後七時。バンセーンのシーサイドレストラン。六十年配の小柄な男がピックアップトラックを下りて海側の丸テーブルについた。注文したビールが来るのを待ちかねたようにして一杯目を飲み干した。<BR>

「相席してもいいですか、おじさん」ソッ・ティールが訊いた。<BR>

「いいとも、若いの。わしも話し相手がほしいところだった」<BR>

「うまそうに飲みますね」<BR>

「仕事が終った後の一杯はとくにうまい」<BR>

「おじさんの飲みっぷりを見ると俺までまで嬉しくなる。ここは俺に奢らせてください」<BR>

「そうかい、悪いね。じゃ、遠慮なくいただこう」男は相好を崩した「お前さん、この辺じゃ見かけない顔だね、観光かい?」<BR>

「いえ、仕事を探してるんです。あんなお屋敷で働いてみたいな」ソッ・ティールが指差した。数キロ先に緑に囲まれた白い邸宅がかすかに見える。<BR>

「職無しに奢ってもらっていいのかな?」<BR>

「心配しないで。さしあたりの金はありますから」ソッ・ティールは笑って財布の中を見せた。<BR>

「お前さん、掃除とか、植木の手入れとかできるかい」<BR>

「雑用はお手のモンです。専門は機械いじりですが」<BR>

「お前さん、手を見せてごらん。ホー、いい手をしてるね。指が長くてよくしなる。拳が大きくて固い。ムエタイやってんのかい?」<BR>

「少し練習したことがあります」<BR>

「わしも昔は鳴らしたもんだよ。軽いクラスじゃ敵なしだったな。オッと、自慢話は聞き苦しいや。お前さん、わしの仕事を手伝ってくれるか。人が足りない」<BR>

「場所はどこです。」<BR>

「お前さんが指差したところさ」<BR>

「え?あのお屋敷ですか。ありがたい、恩に着ますよ、おじさん」<BR>

 ことはソッ・ティールのもくろみ通りに運んだ。昨夜、ウィラワットを尾けてバンセーンの「城」まで来たソッ・ティールは、出入りの清掃人に狙いをつけ、午後から道路を隔てた小高い岡の木陰に潜み「城」門を張っていた。清掃人を乗せたピックアップトラックを追ってシーサイドレストランまで来るのはたやすい仕事だった。清掃人の頭(かしら)に取り入って屋敷で働かせてもらうのがむずかしいと踏んでいた。しかし今までのところソッ・ティールの思う壷にはまっている。    <BR>

「お前さん、泊まるところがあるのかい?」<BR>

「ゆうべはそこに泊まりました」ソッ・ティールはレストランの筋向かいを指差した。バンセーン・ビーチ・ホテル。外観を豪華客船にかたどった高級ホテルだった。<BR>

「無職モンが泊まるところじゃねえな。よかったら今晩からウチで寝てくれ。ところでお前さん、名前は?」<BR>

「ティムです。親方は?」<BR>

「サラウットだ。サラと呼んでくれ。国はどこかね?」<BR>

「カンボジアです」<BR>

「なんかわけありだってのはハナから分かっていたよ。人間六十年もやってればたいていのことはピンとくる。わしは固いことは言わん。ラオス、ベトナム、ミャンマー、パキスタン、いろんな国の人間を使った。要は真面目に働いてくれればいいんだ」<BR>

「サラおじさんはホントの国際人ですね」<BR>

「フン、掃除屋に肩書きはいらねえ」サラウットは満更でもない顔でそう言うとビールを飲み干した。<BR>

「もう一本いきましょう」ソッ・ティールは追加を頼んでからさり気なく訊いた。「あのお屋敷の持ち主は誰なんです?」<BR>

「さあて、誰かね。わしが手間賃をもらうのは禿の旦那だけどボスじゃないらしい。あの屋敷もわけありだ。いわれた仕事だけやってればいい。首を突っ込んじゃあいけねえよ。ライフルをおもちゃにする奴が大勢いる」<BR>

 翌日の午前10時。「城」の広大な敷地のあちこちにある花壇に水を撒くソッ・ティールの姿があった。オレンジ色の派手なユニフォームを着ている。掃除人の行動を監視しやすいように配慮したものらしい。射撃場ではサラウットの言うとおり、五、六人のガードマンがライフルを撃ちまくっていた。連中を横目に見ながらソッ・ティールはほくそえんだ。武器に不自由はしない。<BR>

 二人一組のガードマンが時々ソッ・ティールの側を通った。常時敷地内を交代で巡回しているようだ。ガードマンの前後を数匹の番犬が走る。ソッ・ティールは昨夜のうちに用意しておいたドッグフードをさり気なく与えた。<BR>

 サラウットが回転式の大型クリーナーを持って玄関前に立った。ソッ・ティールはモップとごみ袋を持って従った。玄関の両脇に控えるガードマンが掃除用具を入念に調べ、サラウット、ソッ・ティールのユニフォームをチェックした後、柱に取り付けられたマイクに異常なしを告げた。カメラが一行を監視している。やがてロックのはずれる音、鎖の外れる音がした。分厚い扉が内側に開き、そこにライフルを左手に提げたガードマンが立っていた。玄関の内と外は常に武装したガードマンが外敵の侵入に備えているらしい。<BR>

 ソッ・ティールはサラウットと廊下を磨いて行く間に各階の員数を確かめた。一階玄関に二人。二階中央の二部屋の前に二人。屋上に二人。二階にいる二人はおそらく人質の監視役だろう。屋上の二人は明らかに歩哨兵だった。一隅にはシートをかぶったマシンガンが表門から邸へと続く車道を睨んでいた。入室を許されたのは一階の大食堂と調理室だけだった。飼っている男が多いだけにビール瓶やウイスキーの空瓶が散乱し、贅沢な調度がかえって殺伐とした雰囲気を醸していた。<BR>

 ナンティヤとエミリーの所在を確かめたいが今のところ隙がない。ガードマンの一人がソッ・ティールとサラウットの働きに目を光らせている。しかしゴロツキ上がりのガードマンがいつまでも律義な仕事をするわけがない。帰りがけシーサイドレストランに誘って飲み食いさせれば口を滑らすかもしれない。ひょっとしてサラウットはすでに一部始終を知っているのではないか。それで首を突っ込むなと注意したのかもしれない。いずれにせよここ一日、二日のうちに様子が分かりそうだ。<BR>

「親方、邸の外にも中にもあやしげな野郎がゴロゴロいますね。ここはいったい何なんです?」ソッ・ティールは邸内の掃除を終え、ピックアップの荷台に掃除道具を積むのを手伝いながら声をひそめて訊いた。<BR>

「そんなこと、詮索するんじゃあねえ、奴等に知れてみろ、蜂の巣にされるぜ」「二階の真ん中の部屋に見張りが張り付いていましたが、あそこがボスの部屋ですか」<BR>

「違うね、ボスの部屋は一階だ。オット、ここじゃまずい。ゆうべのレストランへ行こう」<BR>

 二人は表門を入るときと同様、出るときも厳重なチェックを受けた。門が遠ざかってから、サラウットが口を開いた。<BR>

「ここだけの話だが、二階には女の子と母親らしいのがいると思うね」サラウットは口では詮索するなといいながら、実は喋りたくてうずうずしているらしい。<BR>

「コントロール室というのかい、でかい画面がいくつもある部屋だ。前に見たことがある。禿と年増女が時々出入りする部屋だが、そのときはもう一人違う男がいた。禿の旦那がかしこまっていたからたぶんそいつがボスだろう」<BR>

「二階の親子も見たのかい?」<BR>

「あれはさきおとといだったかな、草取りで帰りが遅くなったんだ。そろそろしまおうかという時分にパトカーが車寄せにとまった。ガサ入れかと思ったがそうじゃねえ、お巡りが親子をおぶって邸に入っていったのよ。二階の部屋に見張りが立つようになったのはそれからだ。わしの勘ぐりもまんざら理由がないわけじゃねえだろ」<BR>

「凄いな、親方。腕っこきの探偵になれますよ。どうですか、一緒に奴等の尻尾をつかまえませんか」<BR>

「アホぬかせ。こんな話は酒の肴にしておくのが無難というもんだ。いいか、ティム、これ以上突っつきまわすんじゃねえ。頭吹っ飛ばされるか、ドテッ腹に風穴あけられるか、どっちみちぞっとしないオチがつくだけだ」<BR>

「はい、わかりました」ソッ・ティールは神妙に答える一方で頭を忙しく働かせた。「城」を突っつきまわし、ナンティヤ、エミリーを救出し、胡光伸一味を潰す算段をつけなければならない。<BR>

 翌日午後十時前、デビッド邸の居間の電話が鳴った。<BR>

「明日午後八時、チョンブリのバスターミナルで待て。チョンブリホテルのまん前だ。デビッド、おまえ一人で来い。車は不要。誰にも話すな。特にプラパットが尾けているのが分かったら、ただちにナンティヤ、エミリーを殺す」<BR>

「ナンティヤを電話に出せ」<BR>

「デビッド、だいじょうぶ、心配しないで。エミリーも元気よ」<BR>

「これで納得か。明日午後八時、チョンブリバスターミナル。遅れるな」<BR>

 必要最小限のことを伝えて電話は切れた。しかし夕方バンセーンから戻ったソッ・ティールと十分な打ち合わせをした後だけに、デビッドには余裕があった。<BR>

「チョンブリからバンセーンまで車で十五分だな」ロードマップを広げてデビッドが言った。「この間にチョロチョロ動いて追っ手をまくつもりだろうが、そうはいかん。もう根城が割れているんだ。今度こそ決着をつけてやる。ところで君たちはどうする?」<BR>

「毎度毎度同じことを訊かれるのはたくさんだ。作戦があるんなら、一言、こうしろと言ってもらえればけっこうです」ビリーが返事をした。<BR>

「今回は手強い。ライフルで武装した男が少なくても十五人はいる」<BR>

「だったら味方は一人でも多い方がいい。作戦を中止させるようなへまはしませんよ」巌が脇差の下げ緒をもてあそびながら言った。脇差は父の形見だった。この脇差に触れるとなぜか血が騒ぐ。父親も祖父も剣士として鳴らした。巌は子供の頃から近くの警察道場に通った。血筋というものがあるのかもしれない。<BR>

「ナンティヤとエミリーが捕まってんだ、やり直しのきかない一回勝負だ」ケビンがデビッドに代わって念を押した。<BR>

「すまん。君たちの協力に感謝する。君たちはこれから一人ずつラップラオ・ソイ四十八にある電話工務店に行ってくれ。知人がやってる店だ。ホントは電気工事がいいんだが、知り合いがいない。電気も電話もおんなじようなもんだろう。その店の車でバンセーンまで行く。あとはソッ・ティールに任せろ。彼はサラウットの家に泊っているいるはずだ。くれぐれも尾けられないように注意してくれ」<BR>

「武器はどうするんです?現地調達ですか」ビリーが訊いた。<BR>

「必要な物はソッ・ティールに渡した。しかし今回はぎりぎりまで隠密行動を取って欲しい。つまり君たち得意のパンチとキックを使ってほしいんだ。ナイフでもいい。巌はその剣を持っていけ。下手に撃ち合いを始めるとナンティヤとエミリーが危ない」<BR>

 翌日午後七時五十分。チョンブリのバスターミナルは切符売り場の窓口が一つだけの小さなターミナルだった。デビッド以外に白人はいない。トクトクの運転手がデビッドに近寄った。<BR>

「デビッドさんですか」<BR>

「そうだ」<BR>

「バンセーンビーチのお邸にご案内するようにいわれています。乗って下さい」<BR>

 運転手は自分のトクトクを示した。トクトクは繁華街の裏道を右に曲り左に折れして尾けてくる車のないことを確かめてから海沿いの本道に入った。しばらく走ってから本道を外れ住宅街に入った。ここでも路地を右に左に辿って行く。およそ三十分後、トクトクは白亜の豪邸の表門に着いた。通常の倍の時間をかけている。デビッドは腕時計を見た。八時二十二分。<BR>

 別荘風の建物のブロック塀に沿って黒いバンが停まっていた。屋根のキャリアーには梯子がくくられている。デビッドを乗せたトクトクが側を通り過ぎると、すぐに工事人の格好をした若い男が二人バンを下りた。キャリアーにくくられた梯子をおろし、塀際の電柱に梯子を立てかけた。一人が梯子を上り、一人が梯子を押さえた。工事人は電柱に設置された変圧器に手早く仕掛けを施し、隣の「城」門を見やった。隣といっても一キロはあるだろう。街灯のない道路は暗くてトクトクは見えない。若い男は時間を計算して時限装置の針を決めた。爆発は八時四十分。<BR>

「みんな、時計を合わせてくれ。今八時二十分。八時四十分には玄関に突入する」一仕事済ませてバンに乗込んだソッ・ティールが言った。<BR>

「巌、隣の塀まで車を動かしてくれ・・・よし、オーケー。ここで停めろ。ビリー、梯子を下ろして塀に立てかけてくれ。俺が最初に庭に飛降りる。ケビン、あんたは最後だ。おそらくでかい音がするだろう。ケビンを囮にしてガードマンを片付ける」<BR>

「梯子を内側に下ろしたらどうなんだ」ビリーが言った。<BR>

「出来ればそれがいい。八時四十分までに玄関のガードマンを何とかしなければいけない。途中邪魔が入らなければそれがベストだ。行動開始!」<BR>

 案の定、巨岩が落下したような音がした。すぐに二筋の光が揺れながら近づいてきた。犬の吠え声は起こらなかった。ソッ・ティールが帰りがけに毒入りの餌を与えていた。<BR>

 先を歩いてくる人影にソッ・ティールのナイフが一閃した。月光に光ったナイフが巌の血を躍らせた。巌は摺り足で間合いを詰め抜き打ちに後方の男の頚動脈を斬った。<BR>

「ワーオ、なんだ、それは」ビリーがうめいた。<BR>

「俺にも分からん。手が勝手に動いた」<BR>

「ビリー、そいつの服を着ろ」倒したガードマンの制服を手早く身に着けたソッ・ティールが指示した。捕獲したライフルを背中に担いでいる。<BR>

「オーケー。巌、手伝え」<BR>

「今八時三十二分。玄関まで五分はかかる。急げ」ソッ・ティールは冷静に指揮をとっていた。<BR>

 豪邸の玄関の周囲は真昼のように明るい。玄関の両側を固めるガードマンのところまで忍んでいくのは難しい。交代要員を装うほかはなかった。ソッ・ティールとビリーは帽子を目深にかぶり直し、照明の下に姿を晒した。正面から冷静な足取りで玄関に向かう。<BR>

 デビッドは胡光伸と対峙していた。抜け上がった額。太い鼻。削げた頬。厚い唇。骨太の骨格に硬い肉がつき浅黒い肌が覆う体形は黒犀を思わせる。犀の細い目の代わりに大きなギョロメが何よりも胡光伸の風貌を特徴づけている。<BR>

二人はコントロールボードを備えた黒壇のテーブルを挟んでいた。縦一メートル、横二メートル。重そうだが倒せないことはない。部屋の四隅に巨大なモニターが設置され、どこにいても画面を楽に見られる。斜め横でライフルを構えるガードマンまでおよそ一メートル。出入口を固める男が一人。胡光伸の背後にボディーガードのベニス。デビッドは部屋の間取、敵の位置をしっかり頭に焼き付けた。<BR>

「君に会えて嬉しいよ、デビッド。私の趣味は楽しみながら敵を片付けて行くことだ。君は散々てこずらせてくれた。私に長い間楽しみを提供してくれたわけだ。それも今夜で終わりかと思うと少々惜しい。終わる前に盛大に楽しませてもらおうか」<BR>

「終わるのは貴様の方だ。悪が生き残った試しはない」デビッドは腕時計に目を走らせた。八時三十八分。<BR>

「しごくまっとうな意見だが、私に世間の常識は通用しない。私は子供の泣き声や女の悲鳴、銃声や地雷の爆発の中で育ったからね、それが私の常識になった。人が泣き叫ぶのを一週間も見ないと眠れなくなるんだよ」<BR>

「貴様は真正なサディストだ。戦場で育ったことが言い訳になるか」<BR>

「オヤオヤ、私は言い訳なんぞから一番遠い人間だよ。事実を言ってるだけだ。<BR>

君は今のところ泣き声をあげないようだが、いつまでもつか、とっくり拝見しよう」胡光伸はモニターのスイッチを入れて命じた。「はじめろ」<BR>

 画面の中のパンサックがうなづいてティーシャツを脱いだ。ベッドの向こうでナンティヤが立ちすくんでいる。<BR>

 遠くで鈍い爆発音がした。邸の灯がいっせいに消えた。<BR>

 デビッドは停電と同時に斜め横へ飛んだ。左手でライフルを押さえ右肘撃ちを叩き込む。至近距離で銃声が起きた。胡光伸にはガードマンを配慮する余地はなかった。デビッドを片付けさえすればよかったのだ。デビッドは崩れ落ちる相手と一緒に床に伏せた。奪ったライフルを部屋の隅に投げると入口付近から銃声が上がった。デビッド腹這いになってテーブルに近づき、足を掴みひっくり返した。そのまま部屋の隅まで引きずって堅牢な楯を作る。物音に反応して火を噴くライフル。デビッドは奪ったライフルで反撃した。入口のガードマンが銃を投げ出して倒れた。胡光伸はオートマチックを撃ち尽くすと同時に床に這い、匍匐して廊下に出た。裏口を警備するガードマンが二人、入れ代わりに部屋に入り、いきなり盲うちに銃を乱射した。<BR>

「馬鹿野郎、撃つな」物陰に潜むベニスが叫んだ。しばらく銃声がやんだ。双方の位置を確かめているらしい。電気がついた。自家発電装置があるようだ。<BR>

鋼鉄製のキャビネットの裏に一人。ソファーベッドの背後に一人。バーのカウンターの後ろにベニス。このままでは勝ち目はない。<BR>

 雑談にふけっていたガードマンが話をやめ、近づく二人を不審げに見詰めた。明らかに交代の時間ではない。さらにソッ・ティールは夕方まで掃除人の格好で働いていたのだ。<BR>

「おまえ、いつから仕事を変えたんだ?」<BR>

「今夜からさ。親方は承知だ。親方が口を利いてくれたんだ」<BR>

「・・・」そのガードマンはじっとソッ・ティールの肩口を見詰めた。赤黒く濡れた部分が小銃を背負う紐帯からはみ出ている。<BR>

 遠くで鈍い爆発音がした。邸の灯がいっせいに消えた。<BR>

 ソッ・ティールは銃を構えたガードマンに体当たりした。ナイフが心臓を貫く。ビリーは銃床を振るった。人影ががっくり膝を折った。ビリーは後ろから抱き起こし首筋にナイフをあて低い声で命じた。<BR>

「ドアを開けさせろ」<BR>

「ナロン、俺だ、開けてくれ」ガードマンがかすれた声を上げた。<BR>

「もう一度。でかい声を出せ」停電でマイクも監視カメラもきかない。<BR>

「俺だ、ドアを開けろ!」<BR>

 錠を外す音、鎖を外す音に続いて懐中電灯の光が流れた。ソッ・ティールは光りめがけてライフルを乱射した。ビリーは抱きかかえていたガードマンを中に突き放し自分は身を伏せた。内部から反撃が起きた。ガードマンが絶叫しドアにぶち当たる音がした。ビリーは伏せ撃ちで火を噴くライフルを狙った。突然中からの反撃がやんだ。<BR>

 ソッ・ティールは身を屈めて玄関内を窺った。人の気配のないことを確かめると懐中電灯をつけて二階に一気にかけ上がった。足音に気づいたか、懐中電灯の光に怯えたか、廊下の中央付近から闇雲に撃ってくる。ソッ・ティールは手榴弾を転がした。<BR>

 パンサックがナンティヤをベッドに押し倒したとき、邸中の電気が消えた。ざまあみろ。電気だっていつまでもテメエの思い通りにはならねえ。いつか思い知らせてやる。パンサックは心中で胡光伸に反逆した。階下で銃声が起きた。ハジキくらいに驚く俺じゃねえ。デビッドには恨みがあるんだ。兄貴の分までやってやるぜ。<BR>

 突然、廊下で轟音が轟きドアを裂いた。クソッ、悪ふざけが過ぎるぜ。パンサックは手探りでズボンをはくとライフルの安全装置を外した。廊下には黒い液体が淀み、肉塊が散乱していた。パンサックは初めてうろたえた。廊下の端で様子を窺うソッ・ティールに銃撃を浴びせ、非常階段へ走った。踊り場から外に目を走らせる。表門の前に警官を満載したトラックが停まっていた。<BR>

 パンサックは階段を駈けおり、裏口から桟橋に向かった。薄明かりの夜空に花火があがった。エミリーとナンティヤを保護した合図にソッ・ティールが上げたものだった。トラックの人影が割れ、ばらばらと塀に取り付いて行く。屋上の機関銃が唸りだした。  <BR>

 巌はコントロール室から逃げ出した人影を追った。ビリーとケビンは廊下側の壁に張り付き室内の様子を窺った。バーのカウンターに隠れて銃を構えるベニスの横は廊下側からは無防備だった。ビリーは躊躇なくライフルの引金を引いた。ベニスは壁に赤いペイントをちらして崩れた。キャビネットを楯にしている男が身を乗り出して応戦したところをデビッドが狙い撃った。ライフルが転がった。ソファーベッドの後ろにいる男が手を上げた。ケビンがパンチを振るうと、男は棒のように倒れた。<BR>

「胡光伸が逃げた。どっち行ったか分からんか」デビッドが部屋を大股に突っ切りながら訊いた。<BR>

「巌が追っかけて行ったのが奴かもしらん」ケビンが言い終わらないうちに、ビリーが身を翻した。<BR>

「巌一人じゃ危ない。急ごう」<BR>

 ウィラワットとポーンは快速艇の中で出港の準備をしていた。デビッドを処分する前に、万一の場合を考えて胡光伸が用意させたのだった。停電、銃声、手榴弾の爆発、機関銃の掃射音、と相次ぐ騒ぎに二人は邸内の異変を悟った。<BR>

「ウィラワット、ちょいと見てきておくれ」<BR>

「これはひょっとするとボスと逃げることになりますぜ」言い捨ててウィラワットは桟橋に上がった。照明灯が再びついた桟橋をパンサックが駆け寄ってくる。<BR>

「どうした!」立ち止まったパンサックはウィラワットの詰問を無視して銃口を上げた。ウィラワットがオートマチックの遊底を引いた一瞬、自動小銃が火を噴いた。ウィラワットの身体は一回転して海上に落ち飛沫を上げた。パンサックは顔をひきつらせ甲板に棒立ちになっているポーンを容赦なく撃ち倒し、海上に蹴落とした。 <BR>

  桟橋を走ってきた胡光伸の目の前で快速艇が離れて行く。<BR>

「停まれ!」怒号したが停まらない。胡光伸はライフルを乱射し撃ち尽くした。<BR>

 快速艇はスピードを上げた。胡光伸は振り返り、ベルトのナイフを抜いた。屋上から機関銃の銃口が覗いている。デビッド、ビリー、ケビンは建物の下に釘付けにされていた。巌は桟橋の監視小屋の陰に隠れている。<BR>

「デビッド、出てこい!差しで勝負だ」むろん、ノコノコ出てくれば屋上に合図し機銃掃射で蜂の巣にするつもりだった。「ガキに戦わせて、貴様は後ろで見物か」<BR>

 巌の中でなにかが弾けた。巌は脇差を掴んで疾走した。屋上の機関銃は沈黙していた。巌は胡光伸の突きをかわし小手を抜き打ちに薙いだ。神速の一閃。ナイフを握った手首が宙を舞い海中に落ちた。胡光伸は愕然とした。なぜ自分の手首が飛んだのか分からない。巌は反転して胡光伸に向かい合った。巌の中で富田流小太刀を受け継ぐ血が沸騰した。独特の八双に構えると巌は再び跳躍した。擦れ違いざまの一閃でパンチをふるった左腕が飛んだ。<BR>

「今度は足だ。右足が望みか、それとも左足か」<BR>

 胡光伸はギョロ目をカッと剥き仁王立ちに立っていた。デビッドとプラパットが肩を並べて胡光伸に近づいた。後方からケビンとビリーが続いた。屋上は多数の警官が占拠していた。<BR>

「巌、やめろ」デビッドが止めた。「生かしておけ。一生牢屋に入れてやるのがこいつのためだ」<BR>

「やれるものならやってみろ!」胡光伸は怒号し、巌の前に出たデビッドに突進した。<BR>

「俺にまかせろ」ケビンが巨体を揺すって走った。体当たりの寸前に身を沈ませた胡光伸の頭が顎に入り、ケビンは尻餅をついた。胡光伸は嵩にかかってのしかかった。額をケビンの鼻に叩きつけ、首筋に喰らいついた。ケビンは仰天し相手の髪を掴んで引き離した。胡光伸はすでに大量の出血で失神していた。<BR>

「恐ろしい野郎だ。ドラキュラ顔負けだぜ」<BR>

 首筋には血染めの歯形が残っていた。鼻血が一筋二筋流れ落ちる。<BR>

「急げ。絶対殺すな」プラパットが救急隊員に指示した。<BR>

「俺の傷も何とかして欲しいな」<BR>

「悪いが後回しだ」<BR>

「このおじさんはゴミ処理課だ。ゴミにならないとかまってくれない」<BR>

「たいていお祭りの終った後に登場するし・・・分をわきまえていらっしゃる」 巌がビリーの尻馬に乗ってプラパットをからかった。<BR>

「デビッドの気持ちを考えろ。おちゃらけている場合じゃない」<BR>

 プラパットは眉一筋動かさずそうたしなめて海上を見詰めた。哨戒艇のサーチライトがパンサックを追っていた。

 

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(完)