メコンの落日(第二部)
悠々亭味坊
メコンの河原はいつか夕闇が漂いはじめた。巌とタムの格闘は落日前に片がついていた。ビリーは倒れて動けないタムを執拗に責めつづけた。小一時間にはなろうか。タムの片腕はすでにへし折られていた。それでもタムは口を割らない。
「命はボスが保証する。まっとうな仕事も捜してくれる。けちな運び屋なんかさっさとやめたほうがおっさんのためだと思うがね」
「小僧、黙ってやったらどうだ。手を汚すのが怖いか」
「おかげさまでガキの頃から血を見るのは慣れている。今度は顎を潰してやろうか。俺の肘打ちは結構効くぜ」
「おもしれえ、遠慮なくやってくれ。俺も昔はムエタイでならしたもんだ。ボーヤの肘なんぞハエのとまったほどにも感じねえ」
ビリーの肘が一閃した。グキッという音と共にタムの口から血が吹き出た。
「どうかね、おっさん、ハエのとまり心地は。悪くねえだろ」
タムはうめくだけで返事ができない。
「いい加減に教えてくれねえか。おっさんの後ろで糸引いてるのは誰なんだ・・・え?そうか、知らねえか、じゃあ、しかたねえ、警察に任せるぜ。おっさんも先刻ご承知だろうが警察は組織の縄張りだ。ぶた箱で死ぬことになるぜ。それでもいいのか」
タムは答えなかった。衝撃で脳振とうを起こしたのかもしれない。目が虚ろだった。
「ビリー、もうやめとけ。これ以上やると死ぬぞ」
「おまえ、どこまで甘いんだ。殴ったくらいで死ぬかよ」
「たかが運び屋だ、本当に知らないってこともある。取り引き相手の呂を捕まえたらなんか分かるかもしれない」
「いや、ただのネズミじゃないな、こいつは。藤井さんの所で運転手をしながら美帆と桃子を誘拐する機会を狙っていたんだ。組織の仕事だよ。こいつが頭になって動いたんだ、なにも知らないってことはない」
「しかしビリーの旦那、さっきからちっとも調べがはかどらないぜ。そろそろ警察も来るころだ。どうするね、ニュー・メトロに連れていくか」
ビリーはチッと舌打ちした。
「よし、切り上げよう。先ずはこの金を安全な所に保管する。それからだ、呂を追っかけるのは」
「こいつをどうするんだ」
「ほっとけ。どうせ警察か、呂の手下が片付ける」
巌とビリーはニュー・メトロに戻り、支配人室に向かった。
壮岸軒が電話を手に硬い表情で突っ立っていた。二人を見ても表情を崩さなかった。
「金を預かってもらえませんか」ビリーが手短にこれまでのいきさつを説明してから頼んだ。
「いいでしょう。しかしここも百パーセント安全ではなくなった。しばらく前から電話の盗聴が効かない。見つかったようです。となるとティップが危ない。わたしが住み込ませたメイドです。彼女の口からここが割れるかもしれない」
「こっちから先に明月酒店に乗り込みましょう」とビリーが無造作に言った。
「ティップの情報では呂の手下は少なくても五人いる。ホテルのドアマンが表と裏に一人づつ。フロントに一人。呂に張り付いているボディーガード。それから今日タムと取り引きするつもりで呂の代わりに徳善金行へ行ったソムチャイ。こいつは危険な男です。むやみにピストルをぶっぱなす。呂九竜の片腕です。こいつさえ始末すれば残りはたいして難かしくない」
「このバッグを囮にして呂を我々の部屋に呼びますから、壮さんはその間にメイドを捜して下さい」
「そうたやすくことが運ぶかどうか・・・」壮岸軒が危ぶんだ。
「ビリー、通訳しろ」巌が苛立って口を挟んだ。
「うまくいこうがいくまいがやるしかねえ、考えてるひまはねえってことだ。敵は呂を含めて六人。ソムチャイって男だけだ、厄介なのは。ガンをおもちゃにしてるらしい」
壮岸軒はタムから奪いかえした一千万バーツを金庫に納め、バッグに古新聞を詰めた。さらに机の引出しをあけ、二丁の拳銃を取り出した。
「ホルスターやガンベルトをつけると目立ちますからザックに入れたほうがいい。二人ともデイパッカーの恰好をして下さい」壮は使い古しのデイパックとキャップを二人に渡した。スニーカーは二人ともバンコクを発つときからはいている。
「俺には無用の長物だ。いざとなったらお前が使え」
「二丁拳銃のビリー・ザ・キッドか、こりゃいいや。本物のキッドは何を使っていたんだ。コルトかスミス&ウェッソンか、まさかワルサーじゃあるまいな」ビリーは嬉しそうにピストルの銃身ををなでた。そこにはワルサーP88コンパクトと刻印が入っていた。
「無駄口を叩いてる場合じゃないだろ?さっさと出かけようぜ。ぐずぐずしてるとお前の言うとおり、ションベンちびりそうだ」
「ばかにご謙遜じゃないか、ふだんでかい口きいてるおまえがよ。山室会長が聞いたら目を剥くぜ」
「本物のガンには慣れてないんでね」
「昼間オラチョーンが撃つてきたときは平気な面してたじゃないか」
「相手はおばさんだ、そのうえ飛んだり跳ねたりしてるトクトクから撃つんだ、当りっこねえ。そのくらいは俺も心得ている」 壮岸軒はかつらをかぶり、鼻下に髭をつけ、サングラスをかけた。
「こんなもんでもないよりはましでしょう。ティップが調べてくれたので明月酒店のことはあらましわかっています。フロントには当番が一人か、多い時でも二人しかいません。ビリーと巌は一人のときを狙ってチェックインして下さい。フロントが部屋まで案内しますから、わたしはその隙にカウンターの引出しにある合鍵の束をいただきます。ティップが捕まっているとすればメイド室か洗濯室でしょう。ロックしてある部屋が臭い。見つからないときは呂を痛めつけるほかありません。あとは成り行きに任せましょう。グッドラック!」
壮岸軒は若い兵士を指揮する下士官のように挙手した。とても四十六には見えない。
「隊長殿に敬礼!」ビリーが背筋を伸ばして敬礼した。巌はビリーにならった。「まるで特攻隊だな。感動で震えがくるぜ」デイパックを背負いながら巌が言った。
「ああ、やみつきになりそうだ。ゾクゾクする感じがたまんねえ」ビリーが巌に応じた。
三人はロータリー近くの廃ビルの前で車を降りた。明月酒店はここから歩いて五分。ロータリーの真ん中には大きな野外レストランがあるが、宵の口のせいかひとけがほとんどなかった。
「荒っぽい仕事をするにはうってつけのビルですね」とビリーが言った。「呂だけここに引きずり込めれば話が早い」
「ティップを捜すのが先決だ。それまではなるべく静かにやってくれ」壮岸軒の口調からホテルの支配人らしい鄭重さが消えた。
「ソムチャイって野郎はガンマニアなんでしょう?静かにやれる相手じゃない」
「はじめからドタバタしては助かるものも助からんってことだ」
「わかりました・・・おっと、フロントは一人だ。巌、行くぞ」
「オーケー」
ビリーと巌はしぜんに早足になった。ドアマンが扉を開けた。何の疑いも持っていない。ビリーはこれ見よがしにバッグを受付のカウンターに置いた。フロントはビリーと巌を上目使いに見てからバッグを一瞥した。愛想笑いがこわばった。フロントは明らかに二人とバッグの中身を知っていた。
「ツインの部屋が欲しいんだけど。エアコンつきはあるかな?」ビリーが訊いた。
「はい、ございます。二階でよろしいですか・・・そうですか、ではご案内いたします」
フロントが先にたった。仕草がなよなよと女っぽい。ドアの鍵を回すのにも小指を立てたりする。
「こちらでよろしいですか」部屋に入ってからフロントが訊いた。
「ああ、けっこう。ところで支配人がいたら呼んでもらえませんか。こいつは大事なものでね、頑丈な金庫に入れもらいたいんだ」
「かしこまりました。少々お待ちください。鍵はこちらに置いておきます」フロントは一礼して出て行った。
「タムを追っかけたガキがチェックインしました。支配人に会いたいと言っています」フロントが支配人室の呂に報告した。
「理由は?」
「バッグを預かって欲しいとか。たぶんタムの持ってたバッグです」
「渡りに舟だ。奴らはわしがタムの取り引き相手と知らんのか。承知で来たんなら何か企んでいるんだろうが、たかがガキ二人、金を受取ったら、おまえら、適当に可愛がってやれ」呂はフロントとボディーガードに命じると立ち上がった。
「巌、呂が入ってきたら鍵を掛けろ」椅子の背を逆にしてまたがっているビリーが言った。
「呂はおまえに任せる。俺はボディーガードを片づける」と巌が言った。
「ソムチャイって野郎がどう出るか、いきなり撃ってくるかもしれん、そのつもりで覚悟を決めておけ」
「足音が近づいてくるぜ、三人はいる。腰を抜かすなよ、ビリー」ドアに耳をつけて巌が言った。
「おまえのパンツを下ろしてみたいな、縮み上がっているような奴とは組みたくないからな」とビリーが応酬した。
バッグはサイドテーブルの上に置いてある。 ドアがノックされた。
「カムイン」ビリーが答えた。巌は開いていくドアの陰に立った。
フロントに続いて呂が部屋の中央にゆったりと歩を運んだ。明らかにビリーと巌を小羊と思っている。巌が呂の後ろを固めるガードマンにパンチを浴びせ、ドアの鍵をかけた。起き上がろうとするガードマンのこめかみに肘打を叩き込む。背後の気配で呂が内ポケットに手を入れた瞬間、ビリーが素早くワルサーを構えた。
「動くな!それ以上手を動かすんじゃねえよ、おっさん」
巌はガードマンのホルスターから拳銃を抜き取り、銃把で後頭部を一撃した。ガードマンは声もあげずに倒れた。フロントは両手をあげ、その場に立ちつくしていた。
ビリーはシーツを裂き、呂とフロントの両手両足を縛り上げ猿轡をかませた。
フロントから合鍵の束を奪った壮岸軒は、裏口近くのメイド室に足を忍ばせた。静かに把っ手を回してみる。鍵はかかっていない。壮は拳銃を抜いた。注意深く部屋を調べる。変った所はない。壮はメイド室を出た。隣の洗濯室の把っ手を握った。回らない。鍵がかかっている。壮は鍵束の鍵を次々に試してみた。三回、五回・・・十二回目にコトリと開いた。
部屋の角にティップが手足を縛られ、粘着テープで口を塞がれていた。衣類を剥がされた白い裸身には無数の傷が走っている。壮はティップに近づいた。ティップが激しく首を振った。壮はギョッとして立ち止り、銃口を背後に向けたときは遅かった。洗濯機の後ろに隠れていたソムチャイの拳銃が火を吹いた。きれいにたたまれたシーツの山に壮の体があおむけに突っ込んだ。白いシーツが見る見る鮮血に染まっていく・・・
ビリーと巌は階下の銃声を聞いた。一発、二発、三発、四発・・・
「巌、こいつらを見張ってくれ。俺は様子を見てくる」ビリーが部屋を飛び出して行った。泊まり客が数人、驚いた表情で自室のドアから首をのぞかせていた。ビリーは銃声のした方角に走った。裏口近くの洗濯室のドアが開いたままだ。ビリーは立ち止まり、慎重に体を滑り込ませた。床は血の海。壮とティップが朱に染まっている。ビリーは壮の心臓に手をあてた。続けてティップの剥き出しの乳房の下へ。反応なし。二人とも即死のようだ。
「クソッ!!」ビリーは裏口を駆け抜け通りへ出た。辺りはすでに闇が濃い。通りはめっきり人影が減っていた。行き交う車も少ない。ソムチャイと裏口のガードマンは姿をくらました。たぶん表口のガードマンも一緒だろう。
「壮とティップは殺された。ソムチャイの野郎だ」ビリーが部屋に戻って言った。
「ソムチャイはどこだ!」巌が色をなして訊いた。
「逃げた」と言ってビリーは唇をかんだ。
「逃げた?逃げたですむかよ!」巌はビリーの胸倉をつかんだ。
「やめろ、巌。俺はこの目で現場を見てんだ、おまえより気が立ってるんだぜ。はなせよ」ビリーは悲しげに巌をみつめた。
「クソ、この野郎!」巌は呂の腹に思い切りキックを入れた。呂がうめいて体をくの字に曲げた。
「この旦那を締め上げて行く先を吐かせよう。まず支配人室に案内してもらえませんかね」ビリーは呂の手足のロープを解き、腕をとって立ち上がらせると「そちらのおかまのほうも解いてやれ」と巌に言った。
「なぜ?こんなチンピラほっとけ」
「なんかの役に立つさ」ビリーはそれ以上説明せず、呂の腕をとった。巌もフロントの腕をとり、ビリーに従った。
ビリーは呂を支配人室の大金庫の前に立たせて言った。「開けてもらおうか」
「・・・・・」呂は黙って動かなかった。ビリーは呂の股座を蹴り上げた。呂は床に突っ伏した。
「おまえ、日頃の恩返しに鄭重に舐めてやれ。立ったら根元から食っちまえ」
フロントがあとずさった。巌がローキックを入れるとしりもちをついた。フロントはそのまま呂ににじり寄り、ズボンのチャックを捜した。
「待ってくれ、開ける」呂が苦痛に顔を歪めながら立ち上がった。
金庫の中には大量のドル紙幣、金製品、白い粉末、注射器、蒸留水、黒革の手帳が収まっていた。ビリーは手帳を手にとった。一枚一枚丁寧にめくる。九月二十九日に二重丸。横に<マガ>とある。
「おっさん、これはどういう意味だ・・・そうか、言いたくねえか。じゃあ、おかまさんに頼もう。そこにたっぷり白い粉がある。おっさんが楽に地獄へ行けるまで打ってくれねえかな」
「ほんのちょっとでいいから、わたしにも分けてよ」
「なんだ、この野郎、急にいそいそしやがって・・・」巌がフロントのワイシャツをまくってみると針痕が無数についていた。「ジャンキーだぜ、こいつ」
「ちょうどいい。おっさんと一緒に地獄へ行くんだな」
「あら、やだ、地獄だなんて。天国と言ってよ」
フロントは慣れた手つきで支度を終えビリーを見上げた。
「おっさんが先だ。喋りたくなるまで打ってやれ」
フロントが呂の二の腕に針を入れた。
「止めてくれ。頼む」
「こっちの頼みを聞いてくれないうちは止められねえな」
「その日に取り引きがある」呂がうめくように言った。
「どこで?」フロントをさがらせるとビリーは呂の胸倉をとった。
「プノンペン、水上カジノ<マガ>、三階VIPルーム」
「時間は?」
「午後十一時」
「誰がどこから来る?」
「運び屋が来る。タイ、香港、日本、台湾、アメリカからだ」
ビリーと巌が呂に注意を奪われている隙に、白い粉を鷲掴みにしたフロントが廊下へ走った。巌が追おうとするのをビリーが止めた。
「かまうな、組織に任せておけ・・・で、おっさん、ボスの名前は?」
「・・・・」
「場所も時間も吐いちまったんだ。いまさら隠してもはじまらねえよ」
「・・・・」
ビリーが焦れてソファの腰当てを拳銃に巻き、引き金を引いた。金庫脇の大きな花瓶が割れた。
「今度は足をぶち抜くぜ」ビリーは銃口を呂の太股に向けた。
「胡光伸、ソムサク・サクルー、ミッ・ソピア、レイモンド・イン、リチャード・ワン」呂が震えながら言った。
「ソムチャイはここへ来るのか?」
「たぶん」
「運び屋のルートは?」
「メコンを下ってシャム湾沖の船に運ぶ。他のルートは知らん」
「その先は?」
「わしの仕事じゃない」
「がせねただったら今度こそここが吹っ飛ぶぜ」ビリーは呂の頭部を銃口で小突いた。
「嘘じゃない。信用してくれ」
「マフィアが正直モンだとは聞かねえが、まあ、いい、あとは警察の調べに任せる。せいぜいホントのことを喋るんだな」
「こいつの息のかかった奴がきたらどうにもならないぜ」と巌が言った。
「警察が来るとかえって面倒か」ビリーはいきなり呂の襟首を掴んで引っ立てた。
「どうすんだ?」
「洗濯室に連れてって仏さんの通夜をさせる。巌、おまえもこいつらがどんな惨いことでも平気でやるってとこを見ておけ」
巌は思わず目をそむけた。血の海に壮とティップが沈んでいる。ティップは全裸だった。身体中に刺し傷がある。拷問の痕だった。
「巌、そこのロープでふん縛れ・・・ 仏の流した貴重な血だ、ありがたく頂け」ビリーは呂の首を血の海の床に押さえつけた。呂は苦しがって顔面を左右に振った。呂の顔が真っ赤に染まった。赤鬼の形相だった。
ビリーの目も赤かった。ビリーが泣いている。巌は続けざまのショックで茫然とした。ビリーは洗濯室の鍵をかけ、廊下を歩きながら言った。
「俺の親父もマフィアにやられた。むりやり売人にさせられ、終いには自分もジャンキーになった。そんな親父に愛想をつかしお袋は出ていったまま行方知れず。こんな話はどこにでも転がっちゃいるが、当の子供にとっては死ぬより辛い。だから俺は金輪際、マフィアとヤクは許せねえ」
ビリーと巌はニュー・メトロに引き返し、支配人室で忙しげに指示を出している男に会った。男はアサン・シスリットと名乗った。シスリットは事情を訊く前に金庫を開けて一千万バーツを二人に戻した。オーナーの死を知り、事後処理に追われている様子だった。二人は金を受取り、ウドンタニで借りてきた車に乗り込んだ。遠くで警察の車のサイレンがする。しばらく走ると警察の車が慌ただしく接近してきた。
「ビリー、追われてるのはどうやら俺たちのようだな」
「ここでチェックにあうとうるさい。試合も近いことだし・・・撒いちまえ」
「イミグレまで一本道だ。撒きようがないぜ」
「ラオスのイミグレ突破してタイに飛び込めばいいんだ。あとはデビットの知り合いが何とかしてくれる。思いっきりぶっ飛ばせ」
「こんなポンコツじゃあ百キロでイッパイだ」
「ポンコツにかけちゃ向こうがうわてだ。よくあんなんでパトカーやってるよ」
巌はアクセルを踏んだが、思うように加速しない。それでも警察の車からかなり遠ざかった。夜目にも分かる濛々たる土埃の中にルーフのランプがわずかに見える。
「もうすぐイミグレだ。車でふさがってなければいいが」
「そんときは前の車に乗せてもらう。空いてたらそのまま突っ走れ」
メコン河にかかる真新しい「友誼大橋」が近づいた。入国管理事務所の建物も新しい。係官が赤いランプを振っている。
「ポールが一本下りてるだけだ。あれじゃあ乳母車だって止められねえ」とビリーが言った。「行くぜ!」巌がアクセルを踏み込んだ。
ビシッと音を立てた瞬間、フロントガラスがクモの巣状になった。飛びのいた係官が呼子を吹いている。
「こりゃあ台風の中で走ってるみたいだ。先が見えねえ」
「ゆっくり走れ。むこうさん、諦めたようだ。今夜はぐっすり寝られるぜ」と後方を見ながらビリーが言った。
「ケッ、毎度高鼾かいて寝てるくせに」巌が憎たらしげに言った。
二人は翌日正午過ぎ、無事バンコクのシンサンジムに戻った。ジムに関係する人々が玄関前で出迎えた。オーナーのデビッド・ワイン、山室会長夫妻、料亭経営者藤井謙一・美子夫妻、一人娘美帆、巌の妹桃子、シンサンジム所属の練習生八人全員、トレーナー四人、炊事婦二人。さながら凱旋将軍の歓迎式典だった。
デビッドが手をさしのべ、ビリーの手を握った。ついで巌の手。固い熱い握手。デビッドの暖かい眼差しが二人をねぎらう。不意に巌の目から涙が吹きこぼれた。意思では止められない霰のような涙。山室会長が巌の肩を叩く。藤井が丁寧に礼を言った。練習生達が口々に無事を祝った。その間、巌の涙は止まらなかった。
「なんだよ、ハードボイルドのお兄さんがメソメソしやがって」ビリーの声はいつもよりオクターブほど高かった。
「チェッ、勝手に出てくるんだ、俺のせえじゃねえや」巌が言い捨てると、どっと笑いが起きた。桃子は笑えなかった。さっきから涙を必死の思いでこらえている。人前で兄妹して泣いてはみっともない。が、巌が前に立ったとき、涙が堰を切った。
「お兄ちゃん!」桃子は巌の胸に顔を埋めた。
「おまえ、大丈夫か」巌は誘拐された後の桃子の様子を気遣った。桃子は兄の胸で小さく頷いた。
「全員起立!」山室が胴間声を上げた。「デビッドオーナーの永年の友人壮岸軒氏、その忠実な部下ティップ嬢の死を悼んで一分間黙祷」
全員が目をつむり、頭を垂れた。
「ありがとうございました。続いて呉雄烈リング名ビリー・シンサンと岩本巌リング名ガン・イワモトの無事帰還を祝って、乾杯!」
黙祷の後だけに、低いしめやかな声が山室の音頭に和した。
「藤井社長のご好意で大変なご馳走が並びました。遠慮なく頂戴したいところですが、ビリーと巌は遠慮しろよ。2週間後に試合が控えている」
「会長、そりゃあ殺生だ。ご馳走見ながら水でも飲めと言うんですか」巌が逆らった。
「俺達の帰りを祝う会じゃなくて、いたぶる会にしたいんですか、会長」ビリーが続いた。
「今日は食べたいだけ食べさせてやりましょう。減量に苦しむのは本人なんですから」とデビッドがとりなした。
「いいでしょう」山室は渋い顔を笑顔に変えて「社長、一言ご挨拶を」と藤井を促した。
「ビリー、巌、両君には美帆を助けていただいた。そのうえ身代金まで還ってきて・・・なんとお礼申し上げていいか・・・デビッドさん、山室さん、みなさん、ありがとうございました。万分の一のご恩返しに、これからはしっかりシンサンジムを応援させていただきます。ビリー、巌、両君には今一度、心からお礼申します」藤井謙一・美子夫妻は深々と頭を下げた。ビリーと巌が不器用に辞儀を返した。
「会長のお許しが出たようですから、メイッパイ食べて下さい。足りなかったらつくらせます。みなさんもどうぞ」藤井が勧めた。練習生の群れがいっせいに箸をとり、座が湧いた。弾けるような宴は夕刻まで続いた。
午後七時。応接室にデビッド、山室会長、ビリー、巌が集った。デビッドが詳細な説明を求めた。ビリーと巌は交互にいきさつを話した。
「マガには何度か行ったことがある。ソフィアホテルの裏手にある水上カジノだ」呂九竜からとりあげた手帳を調べながらデビッドが言った。「おそらく間違いない。思いつきでここにマガとは書かんだろう」
「ばれたと分かったら場所や日取りを変えませんか?」ビリーが訊いた。
「九月二十九日まで三週間。各国で動きだしている。もう変えるわけにはいかん」
「ボスの名前がゴロゴロ出てきましたね」と山室。
「その中にわたしが永年追っかけている男がいるかもしれん」
「ビリー、巌、どうする?もう一度行くか?」山室が訊いた。
「今度はわたしが行く。二人に頼むには危険が大きすぎる」
「俺はどこへでも行きますよ。ヤバければヤバイほど血が騒ぐ」とビリー。
「試合より面白そうだ。俺も入れてください」
「面白半分じゃできない仕事だ。それに今度の件は巌に頼む理由がない」
「ありますよ。マフィアがいる限り、どこかで日本人が誘拐されるかもしれない。桃子と美帆は助かったんだからもういい、というわけにはいきません」
「プノンペンは普段でも危険な街だ。とくにヘロインの動く現場に近づけば命の保証はない。素人には無理だ。今度の仕事はプロに加勢を頼む。メッセンジャーの役回りでよければついて来るんだな」
「やれやれ、みくびられたもんだ。どんなプロだって、最初は素人でしょうが。俺達はもうヤマを踏んでますぜ」ビリーがむくれた。
「連れてってくれるんなら文句はありません。カンボジアには一度行ってみたかった。ガイドブックに載らない国ってのは珍しいですからね」
「巌はそれでいい。おとなしく見物していることだ。ビリーは血の気が多くていかん。上官の指令を守れないようなら置いていくぞ」
「間抜けな指令でなければ守ります。取引日に博物館見学してろなんて指令は出さんでください」
「よかろう。そんなに命のやり取りがしたいんならいい機会だ、実地にプロの仕事を見習うといい。名前はソッ・ティール、プノンペンでバイクの修理屋をやっているはずだ」
「オーナーが育てて殺し屋にしたんですか?」巌が訊いた。
「育てたのは確かだが、殺し屋にするつもりはなかった。君達同様、善良にして正義派の市民になって欲しかった。殺し屋になったのはソッ・ティール自身の意思だよ」
「どんな素性の男です?」ビリーが訊いた。
「わたしにもよくわからない。もともと無口な上に、身の上話はしたがらない。父親はキリングフィールドでポルポト派に殺された。二人の姉はタイの兵士に輪姦されて殺された。母親は難民キャンプで病死。戦争で肉親を失っていないカンボジア人はほとんどいないだろうが、ソッ・ティールは家族皆殺しの目に遭っている。わたしが知っているのはこれくらいだ。難民キャンプから連れて来てからはだいたいわかっているが」
「腕は確かなんでしょうね」
「おまえの腕とは比べものにならんよ。射撃でもムエタイでもレベルが違う。一緒に仕事をすれば段々分かってくる」
ビリーは自尊心を傷つけられたようにムッと押し黙った。
「言葉はどうなんです?」巌が訊いた。
「日本語、英語、フランス語、タイ語、ラオス語、中国語、ベトナム語、カンボジア語、この辺の言葉は何でもこなす。父親は大学で外国語を教えていたらしい。頭がいいのは父親譲りだろう」
「ナンでもござれのスーパーマンか、つきあいにくそうですね」
「いや、当たりの柔らかい物静かな好青年だ。いい兄貴分になれると思うがね。ただ闘いの場面になると一変する。見慣れたわたしでもゾクゾクするほど敵に対して冷酷になる。ポルポトが殺した人間は三百万というが、ソッ・ティールは確かにポルポトの一面を持っているな」
「ヘッ、おもしれえ、プノンペンではスーパーマンの腕をとっくり拝ましてもらいますよ」ビリーが叫んだ。
「わたしもソッ・ティールの強さは知っている。ジムをやめなければ今頃はムエタイのチャンプで活躍してる男だ」山室が言った。
「巌はプノンペンに行く前に射撃の練習をしておくんだな。ビリー、射撃クラブに案内してやれ」
「俺は人殺しの練習なんかしたくないです」
「童貞みてえなダダをこねるな。正当防衛ってこともあるだろうが。クラブじゃあ、女、子供もピストルぶっぱなしてるぜ」ビリーがたしなめる口調で言った。
「童貞で悪いか。粋がってわざわざ汚れることはない」
「射撃の練習にきれいだの汚ねえだのってこだわることはないだろ。乗馬やテニスとおんなじお嬢さんのスポーツだよ。もっともマフィアを的にしたらスポーツってわけにはいかねえが」
「巌、連中は人殺しを何とも思っちゃいない。それはビエンチャンで経験済みのはずだがな。そんなの相手に丸腰じゃあ、いくらムエタイの有望新人でもかないっこねえ。会長命令だ。習ってこい」山室が命じた。
「法治国家に育って十八年、ちょいと平和憲法に義理立てしたまでです。会長命令とあっては従うほかありませんね」
「理屈の多い坊やだ。ビリー、明日はムエタイ休んで、尻の青い坊やにパチンコで遊んでやってくれ」
「坊やが男になるまではいろいろ覚えることが多い。頭より体で覚えるんだな」
「ビリー、おまえ、俺と同い年だったよな、頼むからあんまり兄貴風吹かさねえでくれ」
「見込みのない弟に注文はつけない。会長だって有望新人と認めているからしごくんだ。幸せもんだよ、おまえは」
「ビリーの言う通りだ。わたしも大いに期待している」デビッドが穏やかに頷いた。
「上げたり下げたり大人は忙しい。子供には睡眠が大切だ、ちょいと休ませてもらいます」巌は二階の大部屋へ引きあげた。これを潮に四人の打ち合わせは終った。
九月二十二日、ラジャダムナンスタジアムからの帰りの車中は賑やかだった。助手席に山室、後部座席に桃子、ビリー、巌、美帆が座り、デビッドが運転している。
「負けると思ったわ、お兄ちゃん、打たれっぱなしなんだもん」
「ちょいと長引かせたまでよ。一回で片付けたらつまんないだろ」
「それにしちゃあ足元がふらふらしてたぜ。あれも演技かい」山室が兄妹の会話に割って入った。
「わたし、きっと勝つと思ってた。お兄ちゃん、強いモン」美帆が口を尖らせた。
「わかった、わかった、たしかに巌は強い。だけど会長としては文句があるんだ。もう少し守り方が巧くなると楽に勝てると思ってね」
「デビュー戦でノックアウト勝ちは立派なものだ」デビッドが評価した。「ビリーの試合も百点満点、近いうちにチャンピオンになれる」
「ビリーの試合、本当のムエタイって感じがする」と桃子が言った。
「これはどうも」ビリーはこそばゆそうな顔をして「プノンペン行きはいつになります?」と話題を変えた。
「私は二十六日に行って段取りをつけておく。ビリーと巌は二十七日に来てくれ」
「お仕事ですか?プノンペンてまだ危ないんでしょ?」桃子が訊いた。
「私は仕事だが、ビリーと巌は観光さ。市内はバンコクと同じだね。おおむね安全だけど、危険なところもある」
「わたしも行きたい。お兄ちゃん、連れてって」美帆がせがんだ。
「ダメ。もう少し大きくなってから」
「もう少しっていつ?」
「そうね、十年後だな」
「キャッ、気が遠くなりそう」
「デビッドさん、わたし、心配です。二人とも手の届かないところに行ってしまいそうで」
「桃子、あの世に旅立つようなことを言わないでくれ」ビリーが苦笑した。
「心配するなって。観光に行くだけだ、戦争に行くんじゃないんだから」
「アッ、お兄ちゃん、嘘ついてる」桃子が巌の顔を素早く読んだ。
「危険な場所には行かせない。私が監視する」デビッドがうけあった。
「まるで中学の修学旅行だ。セン公に監視されてるんじゃあつまんねえ」巌がとりつくろった。
「わたし、男に生まれてくればよかったな、こういう時、一緒に行けるもんね」
「おまえ、明日からシャドーやれ。足腰鍛えておけば手伝いくらいできるようになる」
「うん、やる。会長さん、お願いします」
「何でそんなに簡単に返事しちゃうの。男の子だって大変なのに女の子にできるわけないでしょうが」
「ランニングと縄跳びだけでもいいです。迷惑かけませんから。プロレスや柔道やってる女の子もいるんだし」
「桃ちゃんはシンサンジムのアイドルにしておきたいの。一緒に汗流されちゃまずいよ」
「アイドルなんて柄じゃありません。それにこの間みたいなことだってまた起きるかもしれないし、思いつきでお願いしてるんじゃないんです」
「コーチは俺に任せて下さい」ビリーはすっかりその気になっていた。
「バーロー!コーチは俺がする」山室が怒鳴った。
「ワーッ、ありがとうございます」
「おねえちゃんだけなんてズルーイ!わたしもヤルーッ」
「美帆ちゃんはバレーボールがあるでしょ」
「やめる!」
「美帆ちゃんはバレーで体を作ってからだな」山室がなだめた。
「桃子はこれでけっこう頑丈にできてます。小さい頃から働いてるんで、汗を流すのは慣れている。手加減しないで鍛えてやって下さい」巌が山室に頼んだ。
「女戦士か。そんな映画あったよな、化け物相手にガンガンライフル撃ちまくるヒロイン。あれ、かっこよかったわ」
「桃子はシンサンジムの看板になれる。可愛くて親切でその上強いとなったら観客が押し寄せますよ」ビリーが調子に乗った。
「そんなに有名になっては困るんだが・・・」デビッドが痛し痒しの口調で言った。
「みなさん、どうしたんですか。まだ始めてもいないのに・・・ご期待にそえない場合もありますので、その節はよろしく」
九月二十七日。ビリーと巌は十五時五十五分発プノンペン行きの双発ジェット機に乗り込んだ。デビッドは調査や段取りの必要から前日バンコクを発っている。ビリーと巌はプノンペンに十七時半過ぎに着いた。ドンムアン空港とは比較にならないほどの小さな空港だった。イミグレのカウンターを通過するとすぐに待合室がある。銀行の窓口が一つ。キオスクが一つ。客は一人も居ない。それでも出口はバイク、タクシーの運転手で鈴なりだった。中に日本語を叫ぶ三十絡みの男がいた。二人はこの男に案内を頼んだ。
男はシンと名乗った。今までに多くの日本人をバイクに乗せてガイドしたという。
「ゲストハウス・ロータスまで頼みます」ビリーがデビッドに教えられた名前をあげた。
「ああ、知っています。中央市場から歩いて五分くらいのところです。安いし清潔だし安全です。トイレ、シャワー、エアコンつきで一泊十ドル。ほかにないですよ、こんなに安いところ」
「すごい土埃だな、口の中がジャリジャリする」巌が文句をつけた。幹線道路から一歩脇に外れると赤土を晒したままの狭い泥道だった。泥道からから入ってくる車が赤土を運んで濛々たる土埃を巻き上げる。大型トラックが通り過ぎた後は目も開けられない。
「死にゃあしねえよ」巌の後ろにまたがっているビリーが答えた。
「ハッハッ、毎日埃かぶって走ってますが死にません。すぐに慣れますよ」シンが笑った。
「埃っぽくないところもあります。よかったらご案内しましょう。可愛いギャルが待ってます」
「大事なビジネスが控えているんでね、遠慮しておきますよ。仕事の前に腰抜かしたら首が飛ぶ」ビリーが断った。
「いい若い衆がなにをおっしゃる。遊べば遊ぶほど勢いがつくものです。そうすればビジネスも成功間違いなし。今晩迎えに上がります。八時頃でいいですか?」シンはしつこく誘った。
「だめだ、他を当たるんだな」ビリーが今度はにべもなく突っぱねた。
「見るだけでも楽しいですよ」
「黙って運転してくれ」
「じゃあキリングフィールドはいかがですか」シンはビリーの怒声にいささかもたじろがなかった。
「キリングフィールドってなに?」巌が訊いた。
「虐殺の現場です。されこうべが山のようにあります。私の父もここで殺されました」
「そんな場所が観光スポットになるなんて感心しないな」
「プノンペンにはあまり観光資源がないんです。女とされこうべとカジノくらいかな。おっと、忘れてた、ガンチャがある」
「カジノはどこ?」
「メコン河に浮かんでいます。ご案内しましょう」
ソフィアホテルの裏手からメコン河に浮かぶカジノまで長い桟橋が伸びていた。途中、石段があって、河岸からも入れるようになっている。河岸は整備され、駐車スペースが大きくとってあったが、半分近くを露店が占領していた。雨季のせいか河岸の下一メートルまで褐色の水が迫っていた。
シンは駐車場の一隅でバイクをとめた。
「デイパック背負ったままじゃ入れてくれないだろ。巌、持っててくれ」ビリーは無造作に荷物を手渡すと、躊躇なく桟橋に向かった。
桟橋の途中、カジノの出入口から三メートルほど手前に金属探知機が置かれ、二人のガードマンが客をチェックしていた。さらに二人のガードマンが出入口を固めていた。出入口の右手にある鉄梯子を下りると小型ボートの舟着場に至る。
ビリーは赤絨毯を踏んで一階のカジノに入った。中国人のグループがルーレットの台を囲んでいる。デッキ側のミニバカラの台にも中国人が群がっている。十メートルほど先の突き当たり右手にデッキに通じるドアがあった。ビリーはさり気なくドアを開け、デッキに出た。河岸の駐車場に観光会社のミニバスが四台停まっている。中国人のグループを乗せて来たバスかもしれない。タイのいたるところで見られるエアコンつきの大型バスは、空港からカジノまでの道中で一台も見かけなかった。ビリーは巌を捜した。外形でそれと分かった。表情は全く分からない。よほど親しいものでなければこの距離から見分けるのは難しいだろう。
デッキから河面まではおよそ五メートル。ビリーは河岸と反対側のデッキに立った。遠くに対岸の緑が見える。エンジンつきの小型ボートがゆっくり河上に上っていく。乗員は制服に救命胴具をつけた三人。警察のパトロールらしい。
デッキは河風が吹き夕涼みには恰好の場所だった。しかし涼みに出てくる客はいない。カジノに来る客は賭博以外に関心を持たないのだろう。デッキの両端に並べられた背丈ほどもある観葉植物の葉が河風にそよいでいる。
ビリーはガラス越しにカジノの中を覗いたがほとんど見えなかった。ガラスに黒色のスクリーンが張られている。二階、三階の窓ガラスも同様らしい。傾斜をつけてはめ込まれた窓ガラスが黒く光っている。ビリーはデッキを調べ終え、一階のカジノに戻った。相変わらず中国人グループで賑わっている。ビリーは客の肩越しにゲームを見ながら部屋を回った。出入口の手前左手にバー、右手にチップの交換窓口がある。ビリーは間取りを頭に叩き込み部屋を出た。
二階、三階への階段にも赤い絨毯が敷きつめられていた。かけのぼっても足音はしないだろう。二階の間取りはデッキへ出るドアがないのを除いて一階とほとんど変らない。ビリーはデッキ側の窓際に寄った。一階の屋根が迫り出している。万一の場合、三階からでもこの屋根に飛降りてデッキにでることができる。ビリーは様々なシーンを想像して興奮した。
スロットマシーンの一角で甲高い中国語が飛び交った。チップがザラザラ音を立てて出てくるのを見て騒いでいる。ビリーは騒ぎの後ろを通って三階へ向かった。出入口に二人のガードマンが立っていた。
「失礼ですがVIPカードをお持ちですか?」一人が緊張した面持ちで訊いた。
「VIPカード?いいや」ビリーはことさら驚いた表情を作って見せた。
「こちらはメンバー専用の部屋ですので、恐れ入りますが一階と二階をご利用ください」ガードマンは鄭重に断ったが、そこには一見の客は決して通さない固い姿勢があった。ビリーは黙って引き下がった。ここで悶着を起こして顔を覚えられてはまずい。
ビリーは河岸に戻った。
「ままごとみたいなカジノだな。見るだけなら五分で充分。博打に縁のない坊やにはデッキのほうがおすすめだ。広々してて気持ちがいい」
「そりゃあ自分のことだろ?俺は千ドルほど稼いでくるぜ」
「言うだけならタダだが、ここは元手がかかるんだ。分かってんだろうな」
「任せておけって。夕飯は俺のおごりだ」
「ヨシ、しっかり稼いで来い」
巌は軽いフットワークで桟橋に向かった。しばらくするとデッキに現れ、さりげなく手を上げた。観光客を装いながら隅々をチェックしているのがビリーには見てとれる。
桟橋の下の船着場に小型ボートが横づけになった。先刻見た三人の制服が鉄梯子をのぼっていく。ひょッとするとカジノのガードマンかもしれない。
「あれはガードマンか?」
「いえ、警官です。カジノとかディスコとかパブに顔を出しては賄賂をせしめるんです。表向きはパトロールと称してますが」シンが苦笑した。「ビリーさんも気をつけて下さい。あいつら、そこらじゅうで網張ってますから」
「とられたことがあるの?」
「しょっちゅうですよ。文句つけるとライフル持った奴が物陰から現れますからね、泣き寝入りです」
「バンコクよりひどいな」 「警察だけじゃない、役人はみんなやってる。ポルポトがつぶれたって同じでしょうね」シンはこの国を見限るようなことを言った。
巌が仏頂面で戻ってきた。ビリーがそれと察してからかった。
「千ドル札を拝ませてもらえるかな?」
「んなもんあるか」
「夕飯はおまえのおごりだったよな」
「勝ったらって条件付きだ」
「いくらやられた?」
「五十ドル。クソッ、忌々しい!」巌が今更のようにわめいた。
「ギャンブルは引揚げ時が肝心だ。五十ドルでやめたんなら上出来よ」
「人の金だと思って・・・さっさとロータスへ行こうぜ」
「勝負は時の運。明日は勝ち目が回って来ます」シンが慰めた。
「ビギナーズラックはプノンペンにはないのかね」巌がまだぼやいている。
ゲストハウス・ロータスの一階はレストランとフロントとランドリーで客室はなかった。客室は二階に五室、三階に五室。デビッドが二階の二部屋を予約していた。
「デビッド様とお連れ様が部屋でお待ちです」フロントが二人を案内した。シンの惹句通り掃除の行き届いた清潔なゲストハウスだった。
「紹介しよう。こちらがソッ・ティール」
ビリーと巌が部屋に入るとデビッドが立ち上がって言った。ソッ・ティールがデビッドのそばに立った。デビッドより上背がある。無駄な肉はついていない。むしろ痩身と思わせるのは頬が削げているせいか。褐色に光る肌。精悍な目。細い高い鼻。引き締まった口元。
<なるほど、こいつは只者じゃねえや>巌は腹の中で呟いた。<しかしこんなに目立っちゃあ殺し屋には向かねえな>
「こちら、ビリーに巌」
ソッ・ティールが笑顔を見せ手を伸ばした。突き刺さるような視線が消え、人懐こい柔和な目になり、口元から白い歯がこぼれた。スマートな体つきに似合わないゴツゴツした分厚い手が巌の手を握った。
<これで殴られたら熊でもしびれる。マフィアでなくてよかった>巌は本気でそう思った。
「マガを見て来ました。ちゃちなカジノですね」ビリーがデビッドに報告した。
「しかしブツの動きにかけてはどこにもひけをとらんだろう」
「誰がマガを経営してるんです?」ビリーが訊いた。
「おそらくシンジケートのボスだ」
「ということは胡光伸?」
「だから取り引き場所をマガにしたんだろう。運び屋のガンは桟橋でチェックできる」
「運び屋といってもタダの使い走りじゃなさそうですね」
「組織の幹部クラスがのりこんでくるだろう。きみと巌には危険すぎる。現場からは少しの間はずれて欲しい。ただ武器の運搬だけは頼まれてくれないか」
「ここまできて、はい、そうですか、とはいえませんね」ビリーはむくれた。
「手伝えることがあれば俺は何でもかまいません」巌が言った。
「武器は調達済みだ。こいつをマガまでボートで運んで欲しいんだ。私とソッ・ティールがデッキから引き揚げる。終わったら君たちは船着き場で待っててくれ」デビッドはクローゼットを開けてバッグを示した。
「私の最終目標はこの男を捉えることだ」デビッドはさらに色の褪せた写真を見せた。二十前後の若い男が写っている。「この男がおそらく胡光伸だ。十七年前、私の両親と妹を殺して逃げた。私は十七年間、私怨を晴らすためにこの男を追って来た。私怨に君たちを巻きこむことはできない」
「もう巻きこんでるじゃないですか。俺もマフィアには恨み骨髄だ。遠慮はいらねえ、大いに巻きこんで下さい」
「デビッドさん、同じことを言わせないでください。俺も桃子の一件でマフィアの旦那方と関係ができちまった。正直なところあんまりゾッとした関係じゃないですが」
「分かった。さっきの頼みは指揮官の命令として聞いてくれ」
「若いときの写真ですね。これは役に立たないかもしれない。悪党は一年で人相が変ります。整形で変える手もあるし・・・もっと確実な決め手はないですか?」ソッ・ティールが訊いた。
「指紋がある。ウチの犯行現場に残していったものだ。胡光伸を捕まえてこの指紋と突き合わせればいい。しかしこれは口で言うほど生易しい仕事ではない」
「間違って死んでしまうこともありますね。それはかまいませんか」
「逃げられるより死んでもらった方が世の中のためになるだろうな」
「当日の行動予定を細かく説明していただけますか?」
「よかろう。ビリー、巌もよく聞いてくれ」
デビッドは市内地図を広げ話しはじめた。
翌日の午前中、ソッ・ティールはビリーと巌をバイクに乗せ、市内の各ポイントを確認してまわった。
「午後はキリングフィールドに行きますか」昼飯を食べながらソッ・ティールが誘った。
「明日までもうやることはないんだし、面白そうなところは今のうちに見ておきたいですね」巌がさっそくのった。
「骸骨の山見て面白がっちゃいけない。それこそ明日はわが身ってことがある」ビリーが注意した。
「揚げ足をとるな。俺だってまさか骸骨見ながらビールを飲むつもりはないさ。それよりなんて言い草だ、明日ドンパチやらかそうって仲間に、明日はわが身、はないだろ」
「巌でも縁起をかつぐかね。そんなに苛々するなって」
「時間がぽっかり空いちまうと尻がもぞもぞしてくる。早くリングへ上がりたいよ」
「明日のリングはヤバそうだ。俺も正直言って落ち着かない。キリングフィールドの仏さんに武運長久を祈ってくるか」
「大丈夫、危険を引き受けるのが私の仕事です。お二人に危ない橋を渡らせるような真似はしません」
「あいにく俺はへそ曲がりにできてましてね、だいじに扱われるとぶち壊したくなる」ビリーが言った。
「床の間に飾っておけるような玉じゃないですよ、こいつは。ヤバいところを選んで飛び込むタイプです」
「巌、おまえだっていやに突っ張る癖があるぜ」
「デビッドさんはそれで二人を見込んでいるんでしょうけど、今度ばかりは指示通りに動かないと命取りになる」
「俺達二人が運搬係じゃ、ちいっと役不足だと思いますがね」
「マフィアが相手ですからね、何が起きるか分かりません。そのときは存分に活躍して下さい。さて、そろそろでかけますか」
幹線道路を半時間ほど走ってから脇道に入った。舗装のない赤土の道がうねうねと伸びている。いたるところに車のほじった大小の穴があって、バイクでさえ走りにくい。さらに半時間、人気のない道を行く。周囲は田圃で人家は見当たらない。 「あそこです」ソッ・ティールが前方の広々とした野原を指差した。数頭の牛が草を食んでいる牧草地の隣に、寺を思わせる真新しい建物が建っている。ビリーと巌はその建物の前に無言で立った。建物の内部はされこうべで埋まっていた。
「これは一部です。まだ掘り出されてない人がたくさんいる」ソッ・ティールが二人を建物の裏手に案内した。そこには数メートル四方の穴がいくつも並んでいた。
「一つの穴から三百から五百の骸骨が出てきます。私の父や、叔父、叔母はここで殺された。どこかの穴に埋められているはずです。これを命令した男の片割れが最近プノンペンに帰って来た。イエン・サリです。戦犯としてではなく、大金持になって帰って来たんです。ビリーさんならこいつをどうしますか?」
「仏サン達と向かい合わせて生き埋めにするね。蜂や蟻がたかりやすいように顔にジャムぬってやるか」
「巌さんは?」
「俺は殺さない。その納骨堂の隣に豚箱作って死ぬまで閉じこめておく」
「ご本人としてはどうするんです?」ビリーが訊いた。
「思案中です。お二人の案は現実には難しい。政府がここに牢屋を作るはずもないし、生き埋めを見逃すはずもない。イエン・サリは政府を買収できたから帰ってきたんです。胡光伸より難物だ。だからといって贅沢三昧に余生を送らせはしない」
ソッ・ティールの表情に一瞬炎のような殺意がよぎった。ポル・ポトの一面を持つソッ・ティール。巌はデビッドの言葉を思い出した。
「実際に現場で手を下すのは兵隊でしょ?お国の人はみんなポル・ポトみたいなところがあるんですか」巌がずけずけ訊いた。
「むろんみんなじゃない。ポル・ポト派にかぎります。子供の頃から特殊な人間に教育されれば特殊な人間になる。ジェノサイドを毎日見て育った者がまっとうな感情を持てるわけがない」
巌は四十度近くに上る炎天下に立ち尽くしながら背筋に悪寒が走るのを覚えた。一言のもとにポル・ポト派を断罪するソッ・ティール自身、特殊な育ちかたをしたのは間違いない。だがこのされこうべの山を見ては、どんなに平凡に育った人間でもポル・ポトやイエン・サリに極刑を宣したくなるだろう。
「俺ならヤマを踏む度にここへ来て牙を研ぐ」ビリーが突然言った。「手を合せるだけじゃあ仏さんが浮かばれねえ」
「牙には牙を、か。血まみれの一生だな。毎晩悪い夢にうなされそうだ」
「意気地のねえガキだ。日本にはもうサムライはいねえのか?」
「いないね。戦国時代はとっくに終ったよ。三十年、戦争やってる国のガキとはできが違うんだ」
「本人の心がけしだいでどうにでもなると思うがね」
「殺しを心がけるつもりはないぜ。血を見て喜ぶガキとはつきあいたくないもんだ」
「ビリーさん、巌さん、喧嘩は明日にしてください」ソッ・ティールが二人を分けた。 「きっと派手な喧嘩になりますよ。私だって血を見て嬉しいわけでじゃないが、蜂の巣にされるのはごめんです」
キリングフィールドは三人の話し声が途切れると森閑とする。小一時間の間、ここを訪れた者はいない。隣の牧草地では相変わらず牛が草を食んでいる。その咀嚼の音が聞こえそうな奇妙な静けさの中で灼熱の光が燃えている。
「こいつはたまらん。頭がボーッとしてきた。早いとこ退散しようぜ」巌が音を上げた。
「日射病にやられるといけません。急ぎましょう」ソッ・ティールがバイクのエンジンをかけた。
「ひよわなお坊っちゃんだ」
「南洋の土人とは育ちが違うんだよ」
ビリーと巌はバイクに乗ってからもやりあっていた。ソッ・ティールは黙ってバイクを転がした。親友間の応酬に口を挟む必要はない。
翌日、午後九時。ソッ・ティールは<マガ>へ向かった。ポケットに入れたのは財布と六メートル余りの細紐とガムテープ。桟橋の検問で見つかっても怪しまれることはないだろう。十分後、デビッドがロータスを出た。二人はシャツ、ズボン、スニーカーすべて紺色を選んだ。<マガ>のディーラーのように、赤いチョッキに赤い蝶ネクタイを締めてひと目でそれとわかる格好はできない。
ソッ・ティール、デビッドともに観光客に紛れて検問を通過し、ソッ・ティールは一階のカジノに、デビッドは三階のVIPルームに入った。
VIPルームにはスロットマシンが置いてない。ルーレット、ビッグバカラ、ブラックジャック、タイサイの台がそれぞれ一台。入口右手に雛壇が備わり、女たちが思い思いのポーズで客を待っている。雛壇に隣り合ってバーがある。デビッドは黒いロングドレスの女を呼んでバーの丸イスにすわった。
「なんにします?」女は達者な英語で訊いた。
「ビール」
「わたしも頂いていいかしら」
「いくらでも」
バーテンダーがグラスにタイ製のビールを注いだ。バーテンダーも赤いチョッキに赤い蝶ネクタイを締めている。
「グッドラック!」女がグラスをあげた。デビッドも軽くグラスをあげた。<とくに今夜はツキが欲しい>
「わたし、ダリーというの。あなたは?」
「リチャード」
「あなた、とてもハンサム。好きなタイプだわ。冷たそうでホントはあったかい。ボギーを若返らせたらあなたになりそう」
「若いのに古い映画が好きなんだな」
「若くないわ。ここの女の子、みんな二十以下。二十六なんてわたしだけよ」
「子供を相手にしても面白くない」
「わたしは面白そうかしら?」
「実を言うとひと目で気に入ったんだ」
「嬉しい。あなたとは初めて会った気がしないわ。昔の恋人の名前、リチャードなの」
「今は?」
「3年も空き家よ。クモの巣が張ってるわ」
「嘘だろ。毎晩侵入させてるくせに」
「気持ちをいってるの」
「気持ちが体に負ける時だってあるだろ?」
「今日がそうなの。朝から体の芯がジンジンいってるわ」
「男ならだれでもかまわないんだな」
「違う。恋人が欲しいのよ。リチャード、いま欲しい」
「といってもここじゃできんよ」
「何のために個室があると思ってんの」ダリーが雛壇の反対側に目をやった。狭い通路を隔てていくつもの小部屋があった。
「社長室はどこ?」
「その通路の突き当たり」
「社長の名前はリチャード・ワンか?」
「あら、どうして知ってるの?」
「有名人だからな」
「他にいもいろんな名前があるわ。レイモンド・イン。ソムサク・サクルー」
「どうして知ってるんだ?」
「昔、恋人だったのよ。わたしがそう思っていただけかもしれないけど」
「よくここにいられるな。自分を振った男のそばなんかいたくないだろうに」
「ここが一番高く売れるからよ。どう?しらけた?」
「いよいよ気に入った。開けっぴろげなところがよろしい」
「誰にでもひろげるんじゃないのよ。わかってる?」
「元恋人は社長室か?」
「今夜はなんかあるみたい。早くからご出勤だわ」
デビッドは腕時計に目を走らせた。十時十五分。「用事を思い出した。すぐ戻ってくる。これで勘定すませて、残りはとっといてくれ。高く買えなくて悪いけど」デビッドはダリーに百ドルを手渡して一階へ下りた。
ソッ・ティールはデッキへのドア近くにさり気なく立ち、外の様子をうかがっている。
「見張りはいるか?」
「ええ、ガードマンが二人、船尾の従業員室から交代で出てきます」
「当て身を食らわせて河へ放り込め。武器はわたしが引き揚げる」
十時二十分。ビリーと巌はアンコール・ワットへの快速艇が停泊している舟着場に着いた。快速艇の横に小型のモーターボートが浮かび、中に男が一人立っていた。監視人らしい。デビッドの名を告げると男は頷き、桟橋におりた。入れ違いに二人はモーターボートに乗り、舟着場を離れた。十時半きっかりに<マガ>の舷側に横づけしなければならない。人の目を避けるために河岸とは反対側の舷側に決められた時間につける。警察のパトロールを避けるには短時間に仕事をやってのけなければならない。
腕時計の針が十時半をさしている。「行くぞ」デビッドが低い声で促した。ソッ・ティールは黙ってデッキへのドアを開けた。デビッドが先に立って舷側に近寄った。下を見るとすでに小型ボートが到着している。細紐を取り出し、ガムテープを重しにしてボートへ向けて垂らす。
ソッ・ティールはデビッドの傍らで周囲に目を配っていた。船尾からガードマンが現れた。二人を見咎めて近づいてくる。じっと矯めていたソッ・ティールの体が躍った。ガードマンが身構えた時には鋭いストレートが鳩尾に食いこんでいた。前のめりに倒れる男を船べりまで引きずり河へ放り込んだ。
ボートでは武器の入ったバッグを細紐で縛り、上のデビッドに合図を送ったところだった。
「ヒェー、人間が降ってきたぜ。どうする?」運転席で舵を握っている巌が訊いた。
「あいにくマフィアの手下を助ける予定はねえな」ビリーが無造作に言った。 河面に再び水しぶきがあがった。ソッ・ティールが水音を不審に思って出てきたガードマンの片割れを始末したのだ。
「なんて天気だ。俺たちの上に落ちてこないうちに退散しようぜ」巌がデッキを見上げながら言った。
「今夜降るのは人間だけじゃねえ、血の雨が降る。ハラを括っておけ」
「覚悟の上とはいいながら、とんでもねえ空模様だ」
デビッドが船べりから親指を突き出した。万事オーケーの合図だった。
巌は桟橋の下の舟着場にボートをつけた。
デビッドとソッ・ティールが仕事を終えるまでここで待つ手筈だった。
デビッドとソッ・ティールはバッグの中からそれぞれの拳銃、銃弾、手榴弾を取り出した。バッグには組立式のライフルが残っている。必要になるまで大きな鉢植えの背後に隠しておく。
ソッ・ティールは二階のスロットマシンの前にすわった。そこからは三階への階段が見える。VIPルームには一息で飛び込める。
デビッドはVIPルームのバーに戻った。ダリーがカウンターに肘をつきバーテンと話していた。
「あなたの噂してたのよ。おとといメンバーになったんですって?仕事で来たの?怖い顔してる。何か狙ってるわね。ここのオーナーがよくそんな顔をするわ」
「個室へ行こう」デビッドが誘った。
「やっとその気になったの?嬉しい」ぴったりと寄り添ったとき、ズボンのポケットの固いふくらみにぶつかった。ダリーははっとしてデビッドを見上げた。デビッドは人差し指を唇に当てた。
「いくらなんでもこんなに固くなることはないわね」ダりーが右手でポケットの上から拳銃をまさぐりながら笑った。左手はデビッドの腰に回している。ダリーは個室に入ると待ちかねたようにデビッドの首に腕を巻き、唇を押しつけた。
「オーナーの本名は胡光伸じゃないか?」デビッドはダリーの腕をほどいて訊いた。
「どうでもいいでしょ、そんなこと。それよりどうしてガンなんか持ってるのよ。見つかったらガードマンが飛んでくるわ」
「わたしには大事なことだ。胡光伸がどんな男か知りたい」
「リチャード・ワンなら少しはわかるわ。女をポイ捨てする男。相棒を平気で消す男。手下を使って何人も殺したって噂だわ。金になるなら何でもやるみたい。ヘロイン、ガンチャ、ピストル、少女売春、幼児売買、なんでもござれの悪党らしい。実際に見たわけじゃないけど」
「おそらく胡光伸だ。捕まえて全部吐かせてやる」
「あなた、CIA?」
「そんなところだ」
「CIAだって一人じゃ無理よ。ガードマンはみんな彼の手下だし、さっきから社長室にはアメリカ人や中国人が出たり入ったりしてるし、わざわざ命をくれてやるようなもんよ」「そうかな、やってみなければ分らんだろ?」
「お願い、止めて」
ドアがノックされた。ダリーが息をのんだ。「お客さん、閉店の時間です」従業員の声だった。
デビッドはダリーを連れ、カジノの客が部屋を出るまでバーで粘った。
「社長室はそこの通路の突き当たりだな」
ダリーが頷いた。
「ヨシ、早くここを出なさい。さもないと怪我をする」言い捨ててデビッドは社長室に向けて手榴弾を転がした。
ダリーは事態がのみこめないまま、バーに突っ立っている。デビッドはダリーにおおい被さるようにして床に伏せた。次の瞬間、爆発音が響き、バーのボトルやグラスが飛び散った。
ソッ・ティールは爆発音を聞くや弾かれたように三階へ跳躍した。拳銃を引き抜きざま出入口を固める二人のガードマンを倒し、柱の陰からカジノ内部をうかがった。カウンター越しにデビッドが三人のガードマンと撃ち合っている。ソッ・ティールは横合いから次々とガードマンを撃ち倒した。
デビッドがカウンターから身を翻し、社長室に走った。入口付近はガードマンの肉塊が飛び散り、ドアは吹き飛んでいる。内部はドル紙幣と白い粉が散乱し、三人の体が床にうずくまっている。デビッドが壊れた花瓶を投げ入れるとたちまちデスクの向こうから発砲が起きた。これでは前進は難しい。金庫を楯にした中国人がトランシーバーに向かって叫んでいる。リチャード・ワンこと胡光伸か。隣にソムチャイがいる。連絡がついたと見え、後方右手の出入口から脱出する機会をうかがっている。
ソッ・ティールは階段側から攻撃をうけた。階下のガードマンらしい。階段が狭く一気に殺到できない。上方に位置するソッ・ティールには楽な標的だった。盲撃ちに撃ってくる男の手首を撃ち抜き、手榴弾を落とした。男達が悲鳴を上げながら階段を駈け下りた。続いて起きる爆発音。
ビリーは二度目の爆発音を聞いた時、ボートから舟着場の鉄梯子に足をかけた。
「おい、どこへ行く。ここで待てといわれてるだろ」
「もう辛抱できねえ。ちょいとのぞいてくる」 ビリーはカジノの階段を慎重に上った。男の体が三つころがっている。VIPルームで激しい銃声が続いている。階段には生き残っている手下はいないようだ。ビリーは一気にVIPルームに入って身を伏せた。
「俺だ、ビリーだ、遊びにきたぜ」
「ビリー、デッキへ回れ、胡が逃げた」ソッ・ティールが怒鳴った。
胡光伸とソムチャイはデッキ側の窓ガラスを破り、二階の窓ガラスを滑り台にして一階の迫り出した屋根に下りた。
三人の運び屋が胡を追って社長室から出てきた。ルーレットの台を楯にして乱射してくる。社長室に釘付けになっていたデビッドが戻ってきて脇から運び屋を狙い撃った。正確な射撃だった。
ソッ・ティールは窓際に走った。頭上から爆音が降ってきた。ヘリコプターだ。すでに縄梯子を下ろしている。胡光伸が駆け寄った。
ソムチャイが白いテーブルを横倒しにして隠れ、デッキへの出入口に銃口を向けている。ビリーが危ない。ソッ・ティールは一階の屋根に飛び下りた。ソムチャイがそれに気づき銃口を上げた。ソッ・ティールが引き金を引く方が早かった。ソムチャイが仰向けに倒れた。続けて胡光伸に拳銃を向ける。かなり遠い。静かに狙いを定めた。ゆっくりと引き金を引く。反応がない。
「シット!」カートリッジが空だった。
胡光伸は縄ばしごを上っている。ソッ・ティールはデッキに飛び下り、植木鉢の陰に隠しておいたバッグを開きスコープ付のライフルを組み立てた。胡光伸はすでにヘリコプターの中。ソッ・ティールは運転席に狙いをつけ、続けざまに引金を引いた。ヘリが急激に傾いた。扉が開き、人影がひとつメコンの河面に落ちていく。胡光伸か。ヘリは傾いたまま河に突っ込んだ。轟音とともに火柱が上がった。
「お前は運び屋の生き残りを始末しろ。私は奴を追う」
デビッドは人影の落ちるのを見て、ソッ・ティールに命じると舟着場へ走った。ビリーが先に戻って巌に怒鳴った。
「巌、エンジンかけろ。出番だ」
「アイアイサー。やっと面白くなってきたぜ、船長殿」
「落ち着け、巌。胡はしぶとい男だ。ヘリまで用意している。これからだって何が起きるかわからん。ビリーも油断するな」
舟着場から舷側に沿って走り、船尾を曲がると視界が開けた。延々と燃え上がるヘリコプターで河面が明かるい。すでに大型ボートが現場に到着している。目の前で人影を救い上げると、上流に向かって走り出した。
「クソッ、先を越された!巌、あれに体当たりだ」
「もう一台いるぜ。こりゃあヤバイ、向こうの方が大きい。ぶつけられたらひっくり返る」
「バーロー、ぐずぐずするな。突撃だ」
巌は先頭のボートを追いかけたが、見る見るうちに引き離されていく。後方のボートが横に並んだ。敵はスキンヘッドの運転手を含めて三人。後部に座る二人がいきなり乱射してきた。ビリーが伏せながら応戦するがこれも当たらない。ビリーは瞬く間に撃ち尽くした。右に左に突っ走るモーターボートから標的を当てる腕はない。
「巌、銃をくれ。ヨシ、スピードを落とせ」デビッドが命じた。敵のボートもスピードを落とした。上下の揺れが少なくなった。デビッドが片膝を突いて構えた。二人の敵は半狂乱になってデビッドを撃った。デビッドが続けざまに引金を引いた。二人は河面に吹っ飛んだ。
スキンヘッドの運転手がボートをぴったりと寄せてきた。身振りでこっちへ来いという。ビリーとデビッドはすかさず飛び移った。胡光伸を捕まえる手だてはこいつしか残っていない。
スキンヘッドはエンジンを止めた。巌もエンジンを止め、ともづなで二艇を縛った。スキンヘッドはバンドに挟んでいた銃を抜いた。デビッドが素早くオートマチックを構える。三発は残っているはずだ。スキンヘッドは銃を河に放り投げてニタリと笑った。
「おまえたち片付けるのにこんなものはいらねえ」
よほど格闘に自信があるらしい。スキンヘッドは上着を脱いだ。半袖シャツから丸太のような腕が剥き出しになった。
「いい気合だ。気に入ったぜ」ビリーが顔面とボディーにパンチを浴びせた。スキンヘッドはびくともしない。足元が揺れてパンチに力が入らないせいか。だがビリーはスキンヘッドの一発でボートの端まで飛んだ。デビッドが支えてやらなければ河に落ちていた。
「ワーオ、こいつはゴリラか。巌、禿頭、叩き壊せ」ビリーがスキンヘッドの背後に回った巌を見て喚いた。
巌はボートに用意しておいた棍棒を脳天に食らわせた。両膝を突いたところをビリーが顎を蹴りあげる。スキンヘッドはブルブル頭を振って立ち上がると長い両腕を伸ばしてビリーの首を押さえた。左右の肘打ちを振るっても動じない。
「小僧、オネンネしろ」頭突きがビリーの顔面を襲った。一発、二発・・・ビリーは昏倒した。
デビッドが銃把をスキンヘッドの額に打ち下ろした。額が割れて血が吹き出した。
「てめえのパンチを使え。こうやって」スキンヘッドのフックがうなりを生じてデビッドの鼻先をかすめた。スウェイバックして辛うじてよけた。まともに当たったらビリーのように昏倒する。巌が再び棍棒で後頭部を狙ったが足元が定まらず肩を叩いた。スキンヘッドが向き直った。顔面血だらけ、凄まじい形相だ。前にどこかでこの面を見たことがある。そうだ、ブッチャーに似ている。巌は思わず後退した。
「巌、泳げるか?」デビッドが怒鳴った。スキンヘッドはそれを聞いて表情を変えた。
「我は海の子、白波育ち」巌はデビッドの意図がわかった。
「こんなとき歌ってどうする」ビリーがやっと立ち上がった。デビッドがスキンヘッドを羽交い締めにした。
「ビリー、行くぞ、セーノ」
「セーノ」ビリーが応じた。二人が体当たりを食らわせ、そのままボートの端まで押し込む。「もう一度」「せーの」
四人は同時に河に落ちた。ビリーと巌はスキンヘッドの足を引っ張った。デビッドは襟首を押さえた。スキンヘッドは泳ぎが苦手らしい。ボート上のゴリラは水中のウサギと化した。三人に翻弄され水を飲むばかり、しばらくするとぐったりした。
「シンクロの練習はここまでだ。休ませてやれ」デビッドがボートに上がった。ビリーと巌がスキンヘッドを引っ張りあげた。
「休んだらまた暴れるぜ。今のうちに縛っておこう」巌が用意しておいたロープを持ってきた。
「ビリー、その前に水を吐かせろ」デビッドが言った。
「世話の焼けるゴリラだ。こいつの面は二度と見たくねえんだが」
スキンヘッドが水を吐き、息を吹き返した。
「巌、ロープをかけろ」ビリーが慌てて叫んだ。
「負けたよ。勝手にしろ」スキンヘッドが大の字になったまま言った。
「サムライにロープは似合わない。そのままにしておけ。道々話を訊こう。巌、ボートを舟着場に戻せ。ソッ・ティールを拾って行く。ビリーは小さい方に乗ってここで待て」
ソッ・ティールはデッキから桟橋にライフルの照準を合わせていた。マフィアの生き残りがまだ三人はいる。
男たちがバラバラと桟橋に飛び出してきた。片手に拳銃、片手にスーツケースを下げている。思った通りだ。ソッ・ティールは男たちをつぎつぎに撃ち倒した。しばらく様子をうかがった。どこからも撃ち返してこない。カジノでの仕事は終った。
ソッ・ティールは炎上するへりの周辺を見つめた。大型のモーターボートが戻ってくる。ソッ・ティールはスコープをのぞいた。デビッドと巌が映った。胡光伸らしい男はいない。代わりにスキンヘッドがいる。
ソッ・ティールはライフルをバッグにしまい、桟橋に下りて三個のスーツケースを集めた。舟着場でボートを待つ。まもなくボートが着いた。四人乗ってなお余裕がある。
「胡光伸は?」
「逃げた」デビッドが答えた。
「この男は?」
「マフィアの手先にしておくには惜しいサムライだ」
「闘いブリが気に入ったんですよ。まともにやったら俺達三人掛かりでも勝てなかった」巌が解説した。
「ガンを捨てて素手で闘うなんてチンピラにできることじゃない」デビッドがつけくわえた。
「しかし今の今まで組織にいた人間でしょ?信用するのが早すぎはしませんか」
「信用してくれって頼んだ覚えはないぜ」スキンヘッドがソッ・ティールをジロッと睨んだ。
「気にするな。用心深いたちなんだ。ところでそれは金かヘロインか?」
「金です。行きがけの駄賃にもらっておきました」
「ひとつはソッ・ティール、ひとつはビリーと巌、のこりひとつはわたしとケビンで分けよう」
「何で俺がおまえと山分けしなければなんないんだ。いらねえよ」スキンヘッドがソッポを向いた。
「金なら前金でいただいてます。これ以上もらうわけには行きません」ソッ・ティールが断った。
「マフィア撲滅基金にカンパします」巌が思い付きの基金にカンパを申し入れた。「ビリーもむろん賛成ですよ」
「オヤオヤ、欲のないサムライがそろったものだ」デビッドが心地良さそうに笑った。
「今さらマフィアにお返しするのは失礼だし、
巌の言うとおり、マフィア撲滅基金として預かっておこう」
一行はメコン河からバサック川が分流する付近でなお炎上するヘリコプターを右に見て、トンレサップ川を遡った。
ケビンの情報が正しければ、三十八キロ上流のウドンに胡光伸のアジトがある。このまま遡上すれば夜明けには着く。しかし武器が足りない。ウドンについての情報も足りない。ここは一息入れるところだ。
一行はデビッドに従い、日本友誼大橋付近の舟着場に上がり、手配ずみのアパートに一泊した。
ソッ・ティールは自分の部屋に戻った。戦闘再開の準備をしなければならない。
メコンの落日第二部(完)